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広くて浅い頭で素直に頑張ります。
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  • 04/24/06:21

07.19.22:59

大鹿村騒動記 ~映画~

(映画の話しに入るまでの前フリが長いけど)
原田芳雄は、私が初めて大人の男として意識した人だった。

高校時代からの友人光早子が、彼の大ファンだった。
もし実際に彼に出会ったとしたら・・・・きっと恥ずかしくてまともに顔を見ることもできず、下を向いているに違いない、と光早子が言っていた。
大好きな彼女が大好きだという男がどんな男なのか、興味を持ったのが始まりだったが、原田芳雄は10代の少女の思い人にしてはあまりにも男くさく、無頼漢のような印象で、私は彼にではなく、彼を好きだと言える光早子に嫉妬した。

一度、彼のライブに光早子と行った。
野外ステージでのライブで実際に見た彼は、とても締まった体をした、とても魅力的な男性だった。
くしゃくしゃした長髪は、画面でみるようなワイルドな印象とは違い、もっと洗練されお洒落に見えた。
こんな素敵な大人の男から愛される女になりたい。
彼を見ながらそう思った。
憂歌団なんかも聴いていた頃で、18歳の女の子が一生懸命大人に憧れていた感じ。
煙草がセブンスターからキャビンになって、ピースライトなんか吸っていて、10代の王道を歩くよりも少しすねて、こてこてのロックンロールかブルースを聴くほうが格好良いと思っていた。
聖子ちゃんも聴いてたけど。

今日、原田芳雄が死んだ。
最後の主演作が「大鹿村騒動記」。
大鹿歌舞伎を300年守り続けている群馬県、大鹿村。
男とその妻、男の親友で妻の愛人、村に住む人々が、大鹿歌舞伎を行うまでの物語で、とても穏やかな、優しい印象の作品だった。
時が過ぎる、時が経つ、歳を重ねることを、素直に素敵だと思えるような。

あんな風に人を許せて、穏やかに日々を過ごせるならば、歳を重ねることはそれだけで素敵だなとしみじみ感じた。
まだ私にはそんなことは出来そうにないから、あんな日々を迎えるために歳をとっていくのもいいかなと思った。
あんな穏やかな作品を選んだ原田芳雄は、きっとあんな穏やかな気持ちになっていたに違いない。
気持ちが丸くなって、大きな心で誰かを許せる、そんな気持ちになっていたのかなと思う。

大好きな大鹿歌舞伎をやることが大事だから、他のことはまあ、色々あるけどどーでもいい!という村人たち。
多くの人たちが、そー上手くは行かなくても、他人のことをあれこれ言うのはヒマだから?なんてことも、この映画は言ってます。

関係ないけどブルースといえば木村さん↓


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06.26.21:09

デンデラ ~映画~

1987フォーラムに補足。

ポスターや予告を観ても、この作品がシリアスだとは思ってなかったですし、奇想天外なストーリーを楽しむつもりで観たのですが、物語といい、演出といい、中途半端さがものすごく残念な作品でした。
女優たちは、さすがにみんな存在感があります。。。
むむむ・・・そこも実は中途半端な印象。

折角のベテラン女優たちが、一生懸命に汚れ演技をやっている(ように見える)のに、生っぽさがまるで感じられない。
天願監督、あの!父親(今村昌平)が作る世界観を越えられず・・・もちろん仕方ないんですけど。
そこは逆に、ベテラン女優を何人も使いすぎたから?かと。

姥捨て山に捨てられた女たちが、なりふり構わず生きぬいているのだから、もう少し突き抜けていてもいいんじゃ?と思います。
なり振り構わずさが、熊の生血を飲むとか、おしっこするとか、おならするとか、髪の毛振りみだすとか、そういう描写じゃないと思うのです。
左とん平の童貞を清川虹子が引きうけたような生っぽさ、そんなものがあっても良かったんじゃないかと思います。
または、そんな生っぽさを描ききれないなら無理なりに、思い切りぶっ飛ぶとか。
だいたいが奇想天外な話なのだから、最後までエンターテインメントに徹してくれれば良いのに、もおう・・・
初めにすごく違和感があったのが、デンデラで出会った女たちをフルネームで呼ぶこと。
なんでフルネームなんでしょう?
リーダーの草笛光子は男性を憎んでいるのに、ひと昔前のレズビアンみたいに、結局は男性を意識してそれらしく振るまっているとしか?
草笛光子を誰かが「男らしい」と比喩していたのですが、やはりそういうことなのかと思います。
ムラ社会に絶望して、女性たちをモノあつかいしていた男性たちを憎んでいるのならば、私なら名字を付けて呼びたくはありません。
家の名前で呼ばれることは、絶対にイヤです。
なのにどうしてそうするのか?というと、男っぽく振る舞っているからかなぁ。
まあ、このお話しにそこまで突っ込むのはナシですが。

ところどころ、良いセリフはあるんです。
何がなんでも生きてやる!そのためにはなり振り構わずでもいいじゃないか!幾つになっても好きに生きて構わないじゃないか!という、力強いメッセージは。
けどです、そんなメッセージを告げたその口の根の乾かないうちに、あなた!なんでそんな馬鹿なことをするっ!と突っ込みたくなるのです。
「女だから考えることをせずにこの歳まで来た」という浅丘ルリ子のセリフがあるのですが、まさかそうだからこうなのかっ!と、突っ込みたくなります。
デンデラ作って30年!と威張っている草笛光子は、威張るんならもうちょっとスマートに戦う術を考えんといかんでしょう~。

多分、観ていた人たちの9割が、「あー、その戦い方じゃダメよー」「息子ですら息上がって辿りついた場所から、あんたたちがどーやって行くのよー」「なんでそんな武器しか持たずにそうするわけー」などなど思ってただろうと、観終わって可笑しくて可笑しくて・・・。
突っ込んで超笑いましたし。

残念ながら、良かった!と言える女優がひとりもいない。。。
最後の浅丘ルリ子が熊に語るセリフなんか、あまりにも陳腐。
というか、え?なんで?そこ?という。

因果応報で最後にあそこがああなる、ということなのか判りませんが、とにかくあのラストもどうしようもなく、奇想天外なストーリーをバカバカしく楽しもうと思っていたのに、それすら裏切られるという、なんとも報われない情けなーい恋に振られたような思いをしました。

とにかく笑えます。。。観終わってから。

05.31.10:00

冷たい熱帯魚 ~映画~

tsumetai.jpg1987フォーラムに入れたものを若干変更~

精神的にもっと酷い描写を想像していたので、意外に普通でした。
ラストも想像の枠を超えず。
あー、絶対こいつ、こう言うぞ・・・こういう終わり方するぞと思っていた通り。
そんな部分や、普通の男の吹越満、キレまくっているでんでんと黒沢あすかがめちゃくちゃスゴイのですが、こうなるんじゃないか?という想像の枠内でした。
ホントに一番キレてるのは、あの娘で、
彼女こそがタイトルにある「冷たい熱帯魚」ですね。
周りの大人たちが魑魅魍魎の如く、どろどろぐちゃぐちゃと混ざり合いしている中、先輩社員に(たぶん)心も身体も可愛がられながらヒラヒラと、自分の幼い欲望を温めながら生きている。
だからこのストーリーは、あの娘によって生まれ、あの娘で終わるのでしょう。

最初から最後まで流れている「生」っぽい雰囲気が、妙にいやらしい作品でした。
「本当らしい」という「生」っぽさではなく、性的な「生」っぽさ。
生々しいエロスというか・・・
三島由紀夫の「午後の曳航」という小説の中で、男になる儀式として猫を解体する少年たちが登場するのですが、流れる血や脈打つ内臓、立ちこめる生臭さなどの描写がとても生々しくてエロチックだったことを思い出しました。
血まみれの黒沢あすかはすっごくセクシーでした。
やっていることは、ロミー・シュナイダーの「地獄の貴婦人」みたい。

吹越満にでんでん、黒沢あすかは熱演でした。
特に、頭の中がすでにキレているでんでんと黒沢あすか。
自分たちに危害を加えそうなものを徹底して排除する、人間的な感性など少しもない野生動物のようでした。
目の前にあるものを欲しいと思ったら、すぐに欲しい。
それが快感につながるものなら尚、嬉しい。
そんな感じで。
黒沢あすかなんて、男相手が汚いオジサンだったり、さえない吹越満だったり・・・だからか、女性従業員とキスしてるところが一番ぞくぞくしました。
それ以外で魅力的だったのが血まみれのシーン・・・(笑)

sukaret.jpgそれにしても、俳優たちは独特のテンションだったでしょうね。
ネジの外れている人を演じるってどんな感じなのでしょう。
または、外れていく様を演じるとは。
韓国の女優、イ・ウンジュの「スカーレット・レター」はそれはそれは心に痛く突き刺さる映画ですが、彼女は血まみれの役を演じたあと(それが原因ではないでしょうが)、自殺しました。
意味の判りにくい物語でしたが、あの、トランクの中の彼女は凄すぎた。
でも、観る側に一定の力を要するシーンは、ある意味魅力的なのは確かです。
なぜ魅力的に感じるか?
それはしょせん私たちがヒト科の「動物」だからでしょう。

園子温監督作としては判り易く、ちゃんと面白く観ました。
彼の作品は実験的というか、人が眉をひそめそうなもの、ホントは見たいと思っているものを集めたらどうなるか?それらをいつも考えて作っているような気がします。

この作品、もう一度観るには1000%元気が必要ですが、
ただ、ただ、もう、パワーに溢れた作品でした。

05.05.12:56

八日目の蝉 ~映画~

youkame1.jpgホントかウソか判らないけれど、動物の赤ちゃんが可愛いのは、そうすることで身を守っているからだと聞いたことがある。
希和子(永作博美)は恋人の妻が産んだ子どもを衝動的に誘拐する。
あの赤ん坊が、あそこで泣き続けていたら・・・・話は変わるが、あの笑顔はCG?嘘じゃないかってぐらいの笑顔だった。
あんな風に笑顔を見せられたら、切羽詰まってる女性だもの、連れて行くわね。
その後、彼女が泣いてミルクを飲もうとしない赤ん坊に自分の乳を含ませようとする場面は、私が抱きしめてあげたいほど切なかった。
子どもを育てたことのある女性なら、あそこではきっとああすると思う。
そのシーンは、この作品の性格を表わしている象徴的な場面だと思う。
「それはないやろう」と思わせる演出がない作品だった。
言ってしまえば、あまりにも観客の気持ちに沿いすぎている。
上手に観客の気持ちの流れのまま流していって、ラストさくっと終わらせる。
とてもうまい構成だし演出だと感じた。

youkame2.jpg子どもを産んだから母になるのではない。
それは先日の「愛する人」の感想でも出したこと。
こういう作品群を観ていると、というか最近思うことでもあるが、女性が子どもを育てるために、はたして男性は必要なのか?
衣食住を維持するのにお金がいる。
その確保のためだけに男性が必要なのでは?と思ったりする。
ならば、女性が子どもを安心して預けて働きに出たり、休んだりできる環境があれば、男性はいらない。
男性はただの種でしかない。

この作品の男性の妻は、社会の仕組みの犠牲になっている、ひどく極端な存在だ。
何故にあれほど男に、いつまでも夫や父親としての義務を果たさせようとしているのか、私にはわからない。
夫に他に好きな人がいて、子どもまで出来たなら、あ、その女に行きなよ、って言やーいいのにと思うんだが(^^ゞ、世の中の女性たちは、「愛情の復活」だの「修復」だのを望んでまで一人の男と一緒にいたいんだろうか。。。。それはちょっともったいないぞ。

とにかく、その妻は、そんなもったいなく、その上そんな考え方しかできないから、自分で自分の首をしめている不幸な人である。

誘拐された赤ん坊はいつしか少女になり、産みの両親とともに暮らすようになるが、結局なじめず、一人暮らしをするようになる。
そして妻子のいる男の子どもを宿し、ひとりで母になる決心をする。

子どもはいつだって大人の顔色を見ている。
悪いことではない。
それは成長の過程で、当たり前のことだ。
だから大人から「すごいね♪」「がんばったね♪」褒められたら鼻をぴくぴくして自慢気に喜んでくれる。
注意したら素直にきく。
発達障害などの精神的な障害を持っていないかぎり、子どもはまず周りの大人との良好な関係性から自身を成長させていく。
友人との関係性をつくっていくのは、そのあとだ。

69ca4ae6.jpeg人に愛されて育てば、人を愛することができる。
愛される=尊重される=敬意をはらわれる、ことだと私は思う。

愛することを甘やかすと勘違いしている人たちがいる。
こういう作品を観て、気付いてほしいなぁと思う。
与えられる愛は、物質的なものばかりではなく、深い記憶に残るものだということを。
人としての自信。
それはいくつもの記憶の積み重ねが作るのではないかと思う。

「八日目の蝉」というタイトルも、ホントやられた・・・くやしいほどうまい。
この作品を観る前に、偶然友人と東日本大震災の夜、空に満天の星空が広がっていたという被災者の話をしていた。
ああ、まさにそのことだなと思った。
良い作品でした。

03.08.08:36

海炭市叙景 ~映画~

kaitan.jpg1987フォーラムに入れたものを少し補足しつつ・・・

心身ともに気力十分、気運上昇、元気が有り余ってもう大変ー、という時に観ないと辛い作品です。
良い作品を作ろう!と頑張ってる感があり、好感が持てます。
頑張ってる感が、いくつかの「やり過ぎだなー」と思える演出にもなっていたかもしれません。
あ、もうそれはいらなかったのにと思える場面がぽこぽこ出てきたのはもったいなかったです。
内容が重いので、「泣かせ」の演出はいらないと思いました。
でも悪くはないです。
あえて難を言えば、です。

雰囲気が韓国映画のようでありました。
この作品の暗さは何かに似てるなぁと、ずっと思っていたのですが、一番しっくりくるのがギドクやポン・ジュノ、ヤン・イクチュンの映画でした。
もしかすると北海道の人は日本という国に対する考え方が少し違うのかもしれません。
作品中にも「内地から来た」というセリフが確か、ありました。
物語の暗さや雰囲気の救いようのなさは、何か土着のものがあるのかもしれないと思いました。
そう思わないと納得いかないぐらいの暗さです。

内容は友人がドンピシャな解説をしてくれたので引用。
5つのエピソードの登場人物たちに共通するのは「推し量る」気持ち。
最初の男は子どもの頃、造船所の事故で両親?父親?を失ったが、船が好きだから自分も造船所で働いた。
寂れた街の中、兄妹たった二人で生きてきた。
古い工場だけど、大きな船を造り送り出すことがどんなに誇らしかったか。
リストラの波が自分たちに押し寄せても、自分が誇りを感じ大切にしているものや仲間を信じていた。
そこには彼が、何を失っても大切にしていた歴史や気持ちがあった。
それを誰が推し量ってくれるのだろう?
「そんなことじゃないだろう!」寡黙な彼が労組のリーダーに掴みかかって叫んだ言葉が物語ります。
わかってほしかった、わかっていると信じていた相手がわかっていなかった、その事に彼の気持ちは粉々に傷ついたのでしょう。

行政の若造に立ち退きをお願いされる老婆も同じ。
自分はずっとここに住んできた。
何もないけど歴史がある、ここで暮らしてきた、街の活性化など関係ない、ここに自分の暮らしがある、ただそれだけだ。
その気持ちを誰が推し量る?
誰もいない、何も言わず老婆にくっついている猫が側にいるだけ。

天体が好きで、ずっと変わらず誇りをもって仕事をしてきたのに、その慎ましさをつまらないと大好きな妻に罵倒された小林薫も、多分子どもの頃から家族に問題を抱え、父親から仕事を引き継ぎ、自分の手でもっと業績を上げたいともがく加瀬亮も。
夫から顧みられず精神を病んだ義母から虐待を受け、ひとりで布団の中で泣くしかない少年も。
誰もかれもがギリギリで、それでも普通の顔をして生活している。
誰からも気付かれなくても、気付いてくれたとしても手を差し伸べられなくても、どんなにギリギリでもそれが日常なんだと。

谷村美月の「日の出を見たら私たちは、あの場所に戻るのだ。」というセリフが全てです。
どんな出来事があっても変わらず日常は流れていく。
「そして船(日常)はいく」というフレーズを何年も前に読んで、それ以来強烈に覚えているのですが、「やり過ぎだなぁ」と感じた連絡船と巡視艇がすれ違うシーンを観て、そのフレーズを思いました。

やり過ぎだと思ういくつかの場面や、ネコは救われても人間は救われない内容はさておき、映画としては良かったと思います。
連絡船からの函館の景色は絶海の孤島のようでした。
書きかけのメモをポケットから取り出して振り返る事務員さん、あのシーンは良かったなぁ・・・

とにかく、それはそれは重く暗いお話しでした。