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02.10.10:57 [PR] |
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06.03.23:44 誕生日おめでとう |
私が股の間からダラダラ血を流しながら貴女を探す夢を見た夜、怖くなって保育器の中にいる貴女を見に行くと、両手にガーゼのミトンをつけた貴女がぐっすり眠ってた。
そう、ちょうど13年前の今頃の話。
さっき貴女が「おやすみ」を言いに来た。
いつものように貴女に「おやすみ」と返した。
こんな毎日がいつまで続くだろう。
私は貴女に恥ずかしくない人ですか?
部活から帰ってすぐ、食べていい?と尋ねるから、いいよと答えた。
太巻きはおいしかった?
何も言わずに、ひとりでお皿に乗ってた半分は食べてしまった。
私は貴女に恥ずかしくない人ですか?
父から、楽しい13年間をありがとうと手紙をもらったようだ。
「なんであんな書き方したの?もおう・・・まるで死ぬみたいじゃん!」
お礼の電話をかけながら、そう話していた。
気持ちの優しい子になってくれて良かった。
貴女と映画の話ができることが嬉しい。
貴女と音楽の話ができることが嬉しい。
私は飾らない、貴女も飾らない。
勉強は大事だけど、本当の頭の良さは数学ができるとか、歴史上の人物を言えるとか、英単語を知ってるとか、そんなことじゃない。
空を見上げれば雲が流れて、風が爽やかで、緑がまぶししく、夜になれば星があり、月が照らす海はとても美しいこと。
そんなことにいつまでも感動できる人でいてください。
そう、ちょうど13年前の今頃の話。
さっき貴女が「おやすみ」を言いに来た。
いつものように貴女に「おやすみ」と返した。
こんな毎日がいつまで続くだろう。
私は貴女に恥ずかしくない人ですか?
部活から帰ってすぐ、食べていい?と尋ねるから、いいよと答えた。
太巻きはおいしかった?
何も言わずに、ひとりでお皿に乗ってた半分は食べてしまった。
私は貴女に恥ずかしくない人ですか?
父から、楽しい13年間をありがとうと手紙をもらったようだ。
「なんであんな書き方したの?もおう・・・まるで死ぬみたいじゃん!」
お礼の電話をかけながら、そう話していた。
気持ちの優しい子になってくれて良かった。
貴女と映画の話ができることが嬉しい。
貴女と音楽の話ができることが嬉しい。
私は飾らない、貴女も飾らない。
勉強は大事だけど、本当の頭の良さは数学ができるとか、歴史上の人物を言えるとか、英単語を知ってるとか、そんなことじゃない。
空を見上げれば雲が流れて、風が爽やかで、緑がまぶししく、夜になれば星があり、月が照らす海はとても美しいこと。
そんなことにいつまでも感動できる人でいてください。
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05.31.10:00 冷たい熱帯魚 ~映画~ |
精神的にもっと酷い描写を想像していたので、意外に普通でした。
ラストも想像の枠を超えず。
あー、絶対こいつ、こう言うぞ・・・こういう終わり方するぞと思っていた通り。
そんな部分や、普通の男の吹越満、キレまくっているでんでんと黒沢あすかがめちゃくちゃスゴイのですが、こうなるんじゃないか?という想像の枠内でした。
ホントに一番キレてるのは、あの娘で、
彼女こそがタイトルにある「冷たい熱帯魚」ですね。
周りの大人たちが魑魅魍魎の如く、どろどろぐちゃぐちゃと混ざり合いしている中、先輩社員に(たぶん)心も身体も可愛がられながらヒラヒラと、自分の幼い欲望を温めながら生きている。
だからこのストーリーは、あの娘によって生まれ、あの娘で終わるのでしょう。
最初から最後まで流れている「生」っぽい雰囲気が、妙にいやらしい作品でした。
「本当らしい」という「生」っぽさではなく、性的な「生」っぽさ。
生々しいエロスというか・・・
三島由紀夫の「午後の曳航」という小説の中で、男になる儀式として猫を解体する少年たちが登場するのですが、流れる血や脈打つ内臓、立ちこめる生臭さなどの描写がとても生々しくてエロチックだったことを思い出しました。
血まみれの黒沢あすかはすっごくセクシーでした。
やっていることは、ロミー・シュナイダーの「地獄の貴婦人」みたい。
吹越満にでんでん、黒沢あすかは熱演でした。
特に、頭の中がすでにキレているでんでんと黒沢あすか。
自分たちに危害を加えそうなものを徹底して排除する、人間的な感性など少しもない野生動物のようでした。
目の前にあるものを欲しいと思ったら、すぐに欲しい。
それが快感につながるものなら尚、嬉しい。
そんな感じで。
黒沢あすかなんて、男相手が汚いオジサンだったり、さえない吹越満だったり・・・だからか、女性従業員とキスしてるところが一番ぞくぞくしました。
それ以外で魅力的だったのが血まみれのシーン・・・(笑)
ネジの外れている人を演じるってどんな感じなのでしょう。
または、外れていく様を演じるとは。
韓国の女優、イ・ウンジュの「スカーレット・レター」はそれはそれは心に痛く突き刺さる映画ですが、彼女は血まみれの役を演じたあと(それが原因ではないでしょうが)、自殺しました。
意味の判りにくい物語でしたが、あの、トランクの中の彼女は凄すぎた。
でも、観る側に一定の力を要するシーンは、ある意味魅力的なのは確かです。
なぜ魅力的に感じるか?
それはしょせん私たちがヒト科の「動物」だからでしょう。
園子温監督作としては判り易く、ちゃんと面白く観ました。
彼の作品は実験的というか、人が眉をひそめそうなもの、ホントは見たいと思っているものを集めたらどうなるか?それらをいつも考えて作っているような気がします。
この作品、もう一度観るには1000%元気が必要ですが、
ただ、ただ、もう、パワーに溢れた作品でした。
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05.23.21:23 アレクサンドリア ~映画~ |
キリスト教に対して、あまりにも嫌悪感を持たせる作りになっているから?
以下、1987フォーラムに追記いれつつー。
4世紀のアレキサンドリア。
単純に考えれば、美しく聡明な天文学者で哲学者のヒュパティアは自分の信じる学問と信念に殉じた、というそれは立派なお話・・・なのですが、宇宙から見た「人間」という存在の何と小さなこと!
人々が生活したり、争っている様子を俯瞰する映像がたびたび出てくるのですが、人間的な弱さや宗教を描いているアメナーバル監督の視線、精神の大きさ、そして神ではなく、宇宙を含む大いなるものの視線がテーマなのでは?と思いました。
昼がきて夜がくるのはなぜなのか、なぜ丸いものから人が落ちずに立っていられるのか、まだ他の星々は地球を中心にまわっていると考えられていた時代に、ヒュパティアは考えます。
冬と夏の太陽の大きさが違うこと。
太陽の周りを地球が周っているなら、それはどんな軌道になるのか?
宇宙の秘密は学問で解明できると信じて。
彼女は暴徒と化したキリスト教徒に惨殺されるのですが(史実では裸にされて生きたまま貝殻で肉をそぎ落とされた)、そのような暴挙に遭ったのは信念に生きたからだけではなく、彼女のおごりもあったのでは。
奴隷を普段から普通に使う特権階級に生まれたおごり。
もうひとつ、これをおごりと言うのかは判りませんが、学問によって宇宙(自然)の領域に足を踏み入れたこと。
それらはまさに今、私たちが直面している原子力発電所の事故にも通じるものです。
人間が本来持ってはいけない知恵によって(旧約聖書的な考え方でいえば)自然界を操作したことによる事故。
ヒュパティアは「宇宙の謎を明らかにしたい」という純粋な思いで研究に没頭します。
それは研究者ならば当然の欲求でしょう。
しかし、いつしかそれが高じて私たち人間は今、自然の摂理までをも変えています。
その報いをいくつも受けているのです。
単純に学問の素晴らしさ、学ぶことの面白さ、それらに没頭できる純粋さは高貴で美しいです。
しかし、それらは一部の人間に許されたもので、多くの奴隷たちの犠牲によってもたらされたものでもありました。
ヒュパティアも何の疑いもなく、奴隷を意のままに使っていました。
それでも学問に打ち込む彼女は美しいし、ひとつの宇宙の謎が解き明かされたときの感動は、言葉にできないほどです。
千年以上前に、こんなに真摯に学問に打ち込む女性がいたことは、同じ女性としてとても誇らしく思えるほど。
私は実在の人物を描いた作品をあまり好きではありません。
作品だけでその人のことを語りそうになるからです。
しかし、女性として顔を上げ真っ直ぐに立っていること、男だとか女だとか関係なく学問は誰にでも等しく、頭上に灯りを照らすものだということ、その点目が覚める思いがする演出でした。
それと、悲しいほどのプラトニックな愛の形が切ないです。
プラトニックだけど、元奴隷ダオスのヒュパティアへの愛は最後、キリスト教的究極でした。。。
慈悲という名の。
彼はあの時ですら、キリスト教徒であり続けました。
無宗教の私には宗教を生きる拠り所にする人たちの気持ちは理解不能です。
自分が信じるのもが正しい。
だからその枠を超えるものは排除する。
決して共存しようとしない。
宗教で争うこと、私には矛盾しているとしか思えないし、言い争っている姿も田嶋先生と勝谷さんのああ言えばこう言うやり取りにしか見えない。
そんな人々の争いや営みを、何度も高い場所からの視線で描かれます。
今でも本を捨てることは身につまされる感じでとうてい出来ないのですが、焚書とか、本を邪険に扱う映像はイヤですねぇ。
どうしてあんなに野蛮に見えるのでしょうね。
レイチェル・ワイズが美しいです。
弟子のオレステスを演じたオスカー・アイザック、ダオスのマックス・ミンゲラも素敵でした。
で、地球の楕円の軌道がなんであんな風に導き出されたのか、誰か私にわかるように説明してください・・・
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05.23.08:50 しあわせを感じるわ |
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05.22.09:58 悪意はないけど善意とも違う |
震災後、ニュース以外でテレビに流れたのは公共広告機構のCMだった。
単体で流れている時は好きだった。
金子みすゝはやはりスゴイ人だな、こんな絶妙な言葉づかいを、いつか私ができるだろうか、そう思っていた。
栗山千明はいつまばたきするんだろう、そうだそうだ抱きしめるのも会話だ、とか・・・・
しかし、さすがに私も娘も震災直後はACACAC・・・うぇ・・・・ぽぽぽーん・・・ごめんなさい、もうしません・・・・善意の無間地獄に居た気がする。
しかしそれはまだ続いている。
義援金の募集や被爆地産の食べ物を食べましょう。。。。
私はイヤだ。
食べたくないし、出したくない。
大好きな先生が仲間たちと復興の名目でチャリティライブを行ったときに、千円出した。
彼らはとても素晴らしいプロのミュージシャンたちなので、彼らへのライブ代として出した。
ライブ代金ならばもっと出したいところだったが、チャリティという言葉が気になってそれ以上出せなかった。
千円を稼ぐために、私がどうしているか。
それを思うと、何に使われているのかわからないトコロにお金は出せない。
1円でも、だ。
どこを見てもレジの横に募金箱が置いてある。
この間までは新燃岳の噴火の被害、その前は口蹄疫。
真面目に何処かへ送ったとすると、今、日本中の銀行は小銭だらけになってるだろう。
被災者たちにそれらは届いているのだろうか?
届けられたとしても、そのお金でいったい何ができるのだろうか?
できるわけない、具体的に何年分のこういうお金、として使わなければ意味がない。
頭が悪すぎる。
被爆地産の食べ物を、先のない私が食べる分はかまわないが、娘には絶対に食べさせたくない。
友人が静岡産のお茶についても連絡してきたが(検査を拒んでいると)、もし、影響があるならば、市販のペットボトルのお茶も気持ち悪い。
そこまで気持ち悪いと言うならば、今までの日常生活だってできないわ・・・そう、言えるものか?
放射能の影響は確率。
とても面白い例えをされた。
100人を広場に集める。
高いところから銃を構えてこう言う。
「これから、そこにいる皆さんの中で5人の人をこの銃で撃ちますねぇー!」
「あっ!隣の人に当たったわ!苦しんでる!でも死んでないみたい、良かったわ」
「あっ!あの人にも当たってる!あらー・・・当たった場所が悪かったみたい。亡くなったわ」
「私たちは当たらなくて済んだみたい・・・ほっ」
放射能の被害とは、そういうことだ。
それを良しと言っている政府は犯罪者だ。
影響を受けやすいのは、私たちよりも背の低い子どもたちだ。
支援物資もえらいな数が集まっているそうだが、どう供給するか、決められていないそうだ。
「この物資はここ(避難所)にいる人数分足りないから、配ることができません」
そのために、様々な物資が山積みされている。
そういう事例が多いと聞いた。
お金にしろ、被爆食料にしろ、支援物資にしろ、馬鹿のような「平等・公平」の考え方がハバを利かす。
人として平等、という言葉。
天井に穴のあいた地下室に監禁して、裸にして首輪をされ、食料は天井の穴から落ちて来る人糞尿。
たまには男たちに犯され、ただ生きているだけの人豚にされている女性たちがいたとする。
そんな扱いを人として許すまじ!
という使い方ならわかる。
優先順位は必ずある。
流行りの「善意」も、その優先順位に使うべきではないか?
強いものがハバを利かす野生動物と違い、知的生物の人間にできることは、優先順位に「善意」をからめることではないか。
だけど、地区役員も行政も政府も馬鹿の大将が集まってるとこだからダメだろう。
心ある冷静でスマートな民間の支援団体が地味ーに動いているようだが、彼らもいつ「善意の無間地獄」におちいるかわからない。。。
お金に関しては、いつの間にかワケのわからない建物や道路、電波塔や政府役員や現場で働いている人たちの作業服なんかに変わったりするかも・・・
お金を出した人は、そのあたりはちゃんと追求する覚悟で出すのが被災者への礼儀、お金への敬意。。。と、一応安全な場所から言ってみる、私も卑怯な偽善者だわ。
追記・絶対にお金を出したくない、と言ってるのではなく、私のお金が本当に困っている人たちに使ってもらえると判るのならば協力します。
被災した一家族が、自力で生活できるために何年必要で、それまでにいくら必要で月割したらいくらだからその分を支援してほしい、という具体的な金額を提示して、被災者以外の日本人全員に負担させればよい。
だって「ひとつになろう日本」なんでしょう?
その手のコピーも気持ち悪い。。。。。「告白」の熱血体力ばか教師みたい・・・・
単体で流れている時は好きだった。
金子みすゝはやはりスゴイ人だな、こんな絶妙な言葉づかいを、いつか私ができるだろうか、そう思っていた。
栗山千明はいつまばたきするんだろう、そうだそうだ抱きしめるのも会話だ、とか・・・・
しかし、さすがに私も娘も震災直後はACACAC・・・うぇ・・・・ぽぽぽーん・・・ごめんなさい、もうしません・・・・善意の無間地獄に居た気がする。
しかしそれはまだ続いている。
義援金の募集や被爆地産の食べ物を食べましょう。。。。
私はイヤだ。
食べたくないし、出したくない。
大好きな先生が仲間たちと復興の名目でチャリティライブを行ったときに、千円出した。
彼らはとても素晴らしいプロのミュージシャンたちなので、彼らへのライブ代として出した。
ライブ代金ならばもっと出したいところだったが、チャリティという言葉が気になってそれ以上出せなかった。
千円を稼ぐために、私がどうしているか。
それを思うと、何に使われているのかわからないトコロにお金は出せない。
1円でも、だ。
どこを見てもレジの横に募金箱が置いてある。
この間までは新燃岳の噴火の被害、その前は口蹄疫。
真面目に何処かへ送ったとすると、今、日本中の銀行は小銭だらけになってるだろう。
被災者たちにそれらは届いているのだろうか?
届けられたとしても、そのお金でいったい何ができるのだろうか?
できるわけない、具体的に何年分のこういうお金、として使わなければ意味がない。
頭が悪すぎる。
被爆地産の食べ物を、先のない私が食べる分はかまわないが、娘には絶対に食べさせたくない。
友人が静岡産のお茶についても連絡してきたが(検査を拒んでいると)、もし、影響があるならば、市販のペットボトルのお茶も気持ち悪い。
そこまで気持ち悪いと言うならば、今までの日常生活だってできないわ・・・そう、言えるものか?
放射能の影響は確率。
とても面白い例えをされた。
100人を広場に集める。
高いところから銃を構えてこう言う。
「これから、そこにいる皆さんの中で5人の人をこの銃で撃ちますねぇー!」
「あっ!隣の人に当たったわ!苦しんでる!でも死んでないみたい、良かったわ」
「あっ!あの人にも当たってる!あらー・・・当たった場所が悪かったみたい。亡くなったわ」
「私たちは当たらなくて済んだみたい・・・ほっ」
放射能の被害とは、そういうことだ。
それを良しと言っている政府は犯罪者だ。
影響を受けやすいのは、私たちよりも背の低い子どもたちだ。
支援物資もえらいな数が集まっているそうだが、どう供給するか、決められていないそうだ。
「この物資はここ(避難所)にいる人数分足りないから、配ることができません」
そのために、様々な物資が山積みされている。
そういう事例が多いと聞いた。
お金にしろ、被爆食料にしろ、支援物資にしろ、馬鹿のような「平等・公平」の考え方がハバを利かす。
人として平等、という言葉。
天井に穴のあいた地下室に監禁して、裸にして首輪をされ、食料は天井の穴から落ちて来る人糞尿。
たまには男たちに犯され、ただ生きているだけの人豚にされている女性たちがいたとする。
そんな扱いを人として許すまじ!
という使い方ならわかる。
優先順位は必ずある。
流行りの「善意」も、その優先順位に使うべきではないか?
強いものがハバを利かす野生動物と違い、知的生物の人間にできることは、優先順位に「善意」をからめることではないか。
だけど、地区役員も行政も政府も馬鹿の大将が集まってるとこだからダメだろう。
心ある冷静でスマートな民間の支援団体が地味ーに動いているようだが、彼らもいつ「善意の無間地獄」におちいるかわからない。。。
お金に関しては、いつの間にかワケのわからない建物や道路、電波塔や政府役員や現場で働いている人たちの作業服なんかに変わったりするかも・・・
お金を出した人は、そのあたりはちゃんと追求する覚悟で出すのが被災者への礼儀、お金への敬意。。。と、一応安全な場所から言ってみる、私も卑怯な偽善者だわ。
追記・絶対にお金を出したくない、と言ってるのではなく、私のお金が本当に困っている人たちに使ってもらえると判るのならば協力します。
被災した一家族が、自力で生活できるために何年必要で、それまでにいくら必要で月割したらいくらだからその分を支援してほしい、という具体的な金額を提示して、被災者以外の日本人全員に負担させればよい。
だって「ひとつになろう日本」なんでしょう?
その手のコピーも気持ち悪い。。。。。「告白」の熱血体力ばか教師みたい・・・・