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09.14.09:25 人と餓鬼のはざま |
阿修羅像が、なぜにあれほど人々の関心を集めるか?
それは立ち姿の繊細さや正面の表情の美しさ、にあるのだろうけど、やはりそれらをそれぞれがそれぞれの年代で知り、感動した記憶を呼び覚ます感覚もあるのかもしれない。
しかし、そんなノスタルジーなど感じる間もなく、阿修羅は美しかった。
どんなに大勢の人々に囲まれ、好奇の目にさらされていようとも、阿修羅は阿修羅で、あの表情の中に私たちが見る様々な思いは、決して美しいものではないけれど、それらを素直に表にあらわし、そして真っ直ぐに立っている阿修羅は、そこだけが研ぎ澄まされ、本当に美しかった。
正面の顔は微笑んでいるようで眉根を寄せ、何かを注意深く見ているようで、何かを策略しているようで、自分には構うなと威嚇しているようでもある。
右側の顔は唇を噛んでいる。
今回、この表情に心を打たれた人たちが多かったようだ。
実際、私も右の顔を見たときは、つい気持ちがゆるんで泣いてしまった。
左の顔はあからさまに怒っている。
今、まさに何か気に障ることを聞き、腹を立てたばかり、という表情。
そして正面の顔がある。
顔ばかりではない。
折れそうに細くて繊細な腕と指が、踊るようにしなっている。
しなりながら合掌している。
脚はまっすぐに、ただ立っている。
この作者は、煩悩を抱えながら、外に溢れてしまう苦悩を抱えながら、生まれてきたこと、生きることは苦であるという仏教に流れる教えを、この阿修羅像だけで表現したのかもしれない。
阿修羅に正面の顔と、二本の腕しかなかったなら、これほど人々の関心を集めなかっただろう。
阿修羅は三つの顔と六本の饒舌な腕で、仏とはいえども下級、そして己に固執し、天界を追われたもの、という愚かで悲劇的な背景を語る。
人でもなく、仏でありがら仏でもなく、悪魔にもなりきれず、下級な餓鬼でもない。
そして阿修羅は真っ直ぐに立っている。
律義に合掌している。
人それぞれに様々な思いを抱かせる阿修羅の姿。
間違っていても、苦しくても、もがいても、それらを抱えて真っ直ぐに立っていることは美しい、と、感じてみる。
本物に会えて良かった。
阿修羅を好きになった気持ちに、心から誇りを感じる。
Re:人と餓鬼のはざま
2009年09月16日水
自然と手を合わせたくなる雰囲気がありました。
三つの顔をそれぞれに見つめていくだけで、心が洗われるような気がしました。
やはり、信仰の対象としての仏像だと感じました。
ふと「どこかにお賽銭箱は・・?」と思った私でした。
もしあったら、お賽銭を入れたと思います。
観ていた女性がウッッットリしながら「なんぼ見ても見飽きんがぁぁぁ♪」とつぶやいていたり、「なんであんなお顔してるっちゃろかー」「これから頑張るぞー、ってねぇ・・・」とか話しているのを微笑ましく思ってました
煩悩というもの
2009年09月17日木
解脱すれば
人間以外、あるいは
人間以上になれるのかもしれないけれど
阿修羅はそれをせず
それができず
煩悩を内に抱きしめたまま
佇んでいる
煩悩こそが
人間の人間らしさだから
だからこそ
阿修羅像は愛おしくもあり
切なくもあり
寄り添いたくなってしまう
決して、うじうじとは違うよ!
それを耐えてる姿が好き。
耐えきれなくて寄りかかるなら、その時はなんぼでも甘えさせてあげる。
ただし、うじうじはイヤ。
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