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03.07.18:23 しあわせな孤独 |
夕べ、恒例の映画サークル合評会で『チェンジリング』の母親が言っていた「希望」について語っていたら、なんだか泣きそうになった。
一般的に見たら、またはあの母親の周りから見たら、彼女が誇らしげに告げた「希望」はひどく哀れに思うだろう。
もういいじゃない、自由になって。
どうか新しい夢に向かって。
誰もが、そう彼女に対して望むに違いない。
第三者は「待ってはいない」から。
かけがえのないものを失って、わずかの望みを大切に握りしめ、それを生きる糧にする気持ちはわからない。
誰だって幸福でいたいから、周りも幸福でいてほしいから、「おそらくそれが事実であろう現実」を受け入れ、新しい道に踏み出してほしいと願う気持ちもよくわかる。
その人への疎ましさが少し含まれた優しさ、悪いことではない、当たり前のことだ。
しかし、彼女自身が待つならば、それを「希望」というならば彼女にとっては「希望」なのだ。
少しも気持ちを誤魔化してはいない、騙してもいない、思い込みでもない、ただ針の先ほどの望みを、まっすぐに目を逸らさず見つめているだけだ。
待っている間に見える景色は、ふたりで見る景色とは違って見えるだろう。
待っている間に聞こえる音楽は、ふたりで聞く音楽とは違って聞こえるだろう。
待っている間に考えることは、ふたりで考えることとは違って思えるだろう。
はたから見るとどんなに愚かでも、胸に宿る涙や笑顔とともに過ごす時間の切なさは、どれだけ人生を深くさせるだろうか。
偏執狂的な行いで誰かを傷つけないかぎり、待つことは少しも悪くない。
むしろその時間から得られるものは、その人にだけに理解できる大きな愛、そして必ず祝福は訪れると信じたい。
Re:しあわせな孤独
2009年03月09日月
心の中に咲く花は
決して萎まないし枯れることもない
誰も
それを摘み取ることはできない
どれほど愚かしくみえようとも
それがただ一つの光ならば
最後まで抱き続けられたら
たぶん幸せなんだろう
僕は
もっと気楽な幸せのほうがいいけど
ただ、これは残念にも幸福なことだと言ってよいのかわかりませんが、痛みと真剣に向き合った人にしか到達できない精神の領域は、確かにあるように思います。
それは狂気と正常のはざまにあるのでしょうね。
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