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  • 06/25/22:58

09.17.00:01

裏切りのサーカス ~映画~

宮崎映画祭で何本か観たあと、2か月映画館に行くこともなく、山の中やら神社やら福岡やらパソコンの前やら・・・何やらやっておった。あ!京都にも行きましたで。鴨川の景色やら大文字焼きやら八坂神社やら平安神宮やら狂言やら見ましたで。
ああ、、、来月の携帯通話料がめちゃめちゃ怖い。
tinker.jpg
2か月ぶりの映画は「裏切りのサーカス」。
スパイもの、二重スパイもの、と聞くと私は小林麻美の「哀しみのスパイ」を思い出す。
モスクワから「ラフマニノフ」と電報を打つアレである。
「私を知らない」と言ってもらい、「あなたを知らない」と言って冷たくそらした瞳が悲しいアレである。
で、やはりというか、さすが麻美さまというか、ジョン・ル・カレは「哀しみのスパイ」を聴いていたんじゃ?と疑ってしまうほどリンクしてた。
でも調べてみたら「哀しみのスパイ」の方が後。
歌詞作ったユーミンは、読んでいたんじゃないだろうか。
でもPVの色合いは似ている。
トーマス・アルフレッドソン監督は、実は麻美さまのファンだったかもしれない(それはないと思うが)。

宮崎でも上映が終わったので、個人的にこっちでネタバレする。

ダークな色調の画面に登場する男男男・・・・
彼らは諜報機関に所属し、国益のための頭脳戦を繰り広げる。

国益のため。

そこが一番重要なのである。
出世とか名誉とか、個人の利益を絡めてしまうとこの作品は普通になってしまう。
二重スパイとして疑われていたスマイリー(ベガマン)と、ヘイドン(テイラー)の違いはそこにある。
冷徹なまでに国益に徹し自分の持つ全てを駒として動かし、結果、組織の長に昇り詰めるスマイリー。
魅力的な容姿を持ちスマートに仕事をこなしてきたように見えるヘイドンは、自分に対する自信が仇になる。
tinker2.jpg
伏龍はじっと池の底に身をひそめ、一気に天に昇る機会を待つ。
地味に仕事をこなし、同僚に妻を寝とられ、二重スパイあぶり出し作戦失敗の責任をとって引退を余儀なくされるスマイリーは、まさに伏龍である。
ひたすら国益のため、妻ですら密かに駒として使う。
決して誰にも悟られず。
そのために二重スパイの疑いもかけられるが、彼こそが誰よりも国に忠誠心を持ち、国益に殉じようとしている人物なのである。

外交とは、欲しくてたまらないものを、あげても良いものと折り合いをつけて交換することだと友人が言った。
スマイリーは諜報機関の中の優秀な「外交官」で、KGBの大物カーラも同じ。
「外交官」は交渉の意義を理解し、スマートに仲立ちをするのが役目。
馬鹿にはできない。
スマイリーの冷徹ぶりは気持ちよいほどである。

ゲイテイストも満載でドキドキさせてもらった。
コリン・ファースは相変わらず格好良い。
スマイリーの部下を演じたベネディクト・カンバーバッチも格好良かった。
ヘイドンを愛しながら暗殺するプリドーのマーク・ストロングの切ない瞳もセクシーだった。

ということでスマイリーのような人物が、今、日本にいたら上手い具合に中国とも交渉できるんじゃないだろうか。
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05.12.12:58

マリリン 7日間の恋 ~映画とか~

マリリン・モンローのイメージはシャネルNO5のポスターだ。

これ。
M-123.jpg
 高校生のときに初めてみて、なんて素敵なんだろうと思った。
小学生の頃からロードショーとスクリーンを毎月読んでいたので、もちろんマリリン・モンローがどんな人なのか、どんな映画に出ているのか知っていたけれど、美女好きの私の食指に少しもヒットしなかった。
ソフィア・ローレン、ジャクリーン・ビセット、小林麻美、多岐川裕美、田中裕子、樋口可南子、基本的に私は金髪には目もくれなかったようである。
(ようやくナオミ・ワッツに出会って金髪に目覚めた)

このポスターに感激しても、モンローの映画を観る気にはならなかった。
ストーリーに興味がわかなかったからだと思う。
時間があれば観てみようかな。

「マリリン 7日間の恋」
映画が大好きな上流階級の青年コリンが、親のコネで入ったローレンス・オリヴィエのプロダクションで映画つくりにたずさわる。
その映画制作の現場で、モンローと関わった日々があった。
24歳の青年にとってそれは素晴らしい青春の1ページになった・・・というお話し。

ミシェル・ウィリアムズは「ブロークバック・マウンテン」「ブルー・バレンタイン」どちらも一般的な家庭の女性の役だったので地味な印象しかなく、まさかこんなに素敵に化けるとは思わなかった。
この映画の中ではとても可愛く魅力的な女性でした。
自然に甘えるしぐさも、キラキラした笑顔も、あんな風に見つめられたら一瞬で恋してしまいそうな瞳も、光り輝く金髪も、真っ白い肌も何もかも。
あの視線には美味しいエサがついていて、向けられたら食いつくしかないような、そんな感じ。

さっきまで腕を組んで肩を寄せて歩いていたのに、好きな人からの呼びかけに、あっさりと走っていく。
でも、ちょっと立ち止まってこちらに駆け戻ってきて、愛情たっぷりのとろけるような表情で「ありがとう」と告げて去っていく。
アーサー・ミラーからの電話を取りに走るマリリンのシーンがツボでした。
コリン青年もイチコロです。
あんな魅力的な年上の女性と関わることができた夢のような日々。
二度と返らない青春の大切な思い出。
それがこの映画です。

マリリン・モンローが抱えていた満たされない孤独。
それはどんな人に愛されたとしても癒されない。
なぜなら本人の問題だから。
育った家庭環境でつくられた精神構造なのか、彼女自身が自分のトラウマに対峙してその不安を取り除こうと努力しないとできないこと。
その点ではとても悲しい人だと思う。
だからこそあんなに魅力的なんだけど。

この作品はコリン青年の話しなので、邦題の付け方は誤りあり。
もう少し考えてくれたら良かったのにと思います。
映画自体、そうたいした話しではないけれど、つまらないタイトルにしてもったいない。

04.30.13:08

ポエトリー アグネスの詩 ~映画~

poetly.jpgこれはものすごい問題作です。。。
よくもまあ、こう描いたと感心します。
観ている最中も観たあとも不快になること間違いなし。
歳をとること、生きること、それらを拒否したくなります。
反面教師を狙ったのではなく、人生をすごーく俯瞰して見たというか、人生や人の全ての部分の二面性を見せたということなのでしょう。
その見せ方、例えにしているところが老婆の「アルツハイマー」や「見栄」なので、そこがあまりにもエグイ。
エグすぎます。
ポスターに騙されて見た人たち、特に年配の人たちは奈落の底におちると思います。
自分たちの存在自体を辱めるような、そんな雰囲気まであるから。

ただ、そこまで人を貶めるテーマで作品を作ったという真っ直ぐさ、中途半端なところがまるでないという部分では感服しました。
嫌いだけど、その点は褒めるべきなのかなと。
褒めるといっても石原慎太郎は嫌いだけど、あれだけの日本規模のわがままぶりってすごいよね、って言うような感じで。

主人公の老婆の背景は何も出てきません。
現在は古いアパートに孫と住んでいる彼女も、子ども時代は裕福だったのだろうか?と思います。
彼女はどこに行くでも綺麗にお洒落をして出掛けます。
必ず帽子をかぶって、セレブな奥さま風。
ホントは生活保護を受けながら、知り合いのお手伝い?風呂に入れる介護のアルバイトをしながら中学生の孫の面倒をみています。
孫は思春期の男の子らしく、怠惰で、言うこともあまりきかず・・・。
もしかすると、決して裕福ではなく古い部屋に住みながらも外に行く時にはあそこまで綺麗にして出掛ける彼女をどこかで馬鹿にしているのかもしれません。
思春期特有の、身内に対する恥ずかしさとか存在自体のどこか欺瞞とか、そんな。

そんな中、たまたま行った病院で簡単な言葉が出なくなってきていることを指摘され、自分にアルツハイマーの症状があることを知ります。
でも、それを毎日のように電話で話しをしているらしい遠くに住む娘には言いません。
もちろん、誰にも言いません。

ある日、孫が同級生の女の子の自殺に関わっていたことが発覚します。
集団で女の子を長い間、性的な慰み者にしていました。
その賠償責任を負わねば・・・というところがこの作品の中心なのですが、一番のミソはこの主人公が持つ、見栄。

馬鹿みたいに見栄を張ることを私は良しとしないけれど、でも、見栄を張らずに生きる人はいません。
誰だって何かしらの見栄は張る。
だからこそちゃんと外に出るときに女は化粧をするし、とりあえず服は着るし、子どもに一般的な学力をつけさせたいから学校にもやる。

そんな小さな当たり前の見栄をどうやって張っているか?
この作品はそこを浮き彫りにします。
私たちだってそうするために上司に我慢したり、クライアントにぺこぺこしたり、やりたくない仕事をやることになったりするわけで、そういう部分を仕事以外の人たちに、周りにみせたくはないでしょう?

それを社会的な弱者である老婆、それもアルツハイマーの症状のある老婆にさせたところが酷い。
誰にだって確実に二面性はあるのに。

抱えきれない現実を見たとき、それに対峙するか逃げるか。
誰だって逃げたい。
その「逃げ」の部分がこの作品の「詩」であり「アルツハイマー」です。
「詩」が、この作品ではあまりにもバカバカしいものとして描かれています。
決してランボーやヴェルレーヌが自身を壊しながら相手を壊しながら創作したようなものだとは扱われていません。
ある意味、主人公の魂の叫びなのでしょうが、軽い。
それは、詩を「逃げ」として使っているから。
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のミュージカル部分とちょっとだけ、ちょっとだけ似ている。
ただ、あれとは主人公が抱えているものが比べ物にならないです。

アルツハイマーもです。
主人公がいったいいつ正気なのか?
そこがハッキリとはわかりません。
きっと正気に戻っていた瞬間、彼女がこの作品の中で唯一ハッキリと女としての自分のプライドを表わした場面は素敵でした。
また、彼女がプライドを捨てて挑んだ行為を、とても用意周到に抱えてそして使ったシーン、そこだけが救いでした。
ほんとにそこだけ。。。

ラスト・・・・あれ、きっと私は残念なことになってるだろうなぁと思います。
はっきりと示されないあのシーンが、この作品全体を表わしているのだと思います。

言ってしまいますが、
私は老婆は死なないと思います。
死なずに、何ごともなかったようにまたあのアパートに帰ってくるのではないでしょうか。
アルツハイマーのある老婆として。

映画としてきれいな展開ならば、あのまま思考は自分の記憶の彼方をさまよいながら、ぼやけた頭で彼女は何処かをさまよい続ける・・・・のでしょう。
一遍の詩と花を残して、詩の教室から姿を消したのですから。

絶対に絶対に、誰にもおすすめしません。。。。が、きっとポスターに騙されて観る人がたくさんいるんだろうなぁと思います・・・・お気の毒に・・・・・・

04.12.19:57

Shall we dance ? ~映画とか~

どうして今頃?な作品だけれど、PTAの色々がある時期なので人は見掛けとかイメージだけで判断できないよ、という話しのついでに。。。

この作品は邦画と洋画と2種類あるが、私は洋画の方が話しとしては好き。
特にラスト、リチャード・ギアが薔薇を手に妻のスーザン・サランドンの職場を訪ねるシーンがとても好き。
夫にそういうことは10000%望んでいないが、お話としては邦画よりもはるかに洋画版が好きだった。
日常にある物足りなさを感じている男が、通勤電車から見えるダンス教室の窓辺に立つ美女に惹かれてダンス教室のドアをたたく。
そこから彼には新しいトキメキが生まれ、新しい毎日に充実感を得る、、、というのが両方に共通する主な話し。

邦画では妻は専業主婦。
洋画ではキャリアウーマン。
邦画で夫が感じているのは平凡な幸せの中に潜む、「何となく」な寂しさ。
洋画では忙しい妻に置いてかれた感の寂しさ。
ダンス教室を辞め、再び平凡な毎日に戻って何ごともなく日々を過ごす、、、ちょっぴり冒険もしちゃったけど・・・というのが邦画のラスト。
ダンス教室は辞めたけど、何だか新しい自分にも気づいちゃったし、妻とも何だかまた新しい関係で頑張っちゃおうかなー・・・・というのが洋画のラスト。

邦画は、竹中直人や渡辺えり子にあははーと笑いながら、草刈民代のターンにウットリしながら、なんだか最後まで悪役のような感じの原日出子の役まわりがどうかあった。
それでも悪くはないかなと思っていたが、洋画を観て邦画のもやもやの理由がハッキリした。
妻は別に何も悪くないし、ちゃんと家事もなにもかもやっているのにあの男め、勝手にしょぼくれて、勝手に盛り上がって、勝手にまたしょぼくれやがって、、、という自分勝手さがイヤなんだった。
それは同じ役所広司の「失楽園」のイヤさと同じ。

そのイヤな邦画版でもひとつだけ好きなところがある。
それは渡辺えり子の役どころ。
彼女は初め、ダンス好きなただの色気おばさんとして登場するが、実は地道に仕事を頑張り、娘も育て、ダンスは唯一自分の楽しみで続けているということがわかる。
それがあるから疲れる仕事も続けていける、自分の人生の色どりとしてダンスがあり、年に一度大きな舞台で踊ることが生きる支えになっているということ。
その可愛らしい庶民感覚がとても好きだった。

で、最初そうとは知らない竹中直人が「エロぼけババア」みたいなことを言っていたが、実は私たちの日常にもそういうことはたくさんある。
私の周りではPTAの活動などがそうだが、「口うるさい」とか「引っ掻きまわす」存在のようにTVや映画では登場する。
少なくとも私の周りはそうではない。
むしろよく活動されてる人の方が学校側とは仲良くされている。
それに、とても素直で良い人たちだと思う。

確かに中にはあまり関わりたくないなぁと思う人たちもいるが、関わらなければすむことなのでほっておく。
そんな好きでも嫌いでもない人たちが、どこでどうしようとどうなろうと私の人生に影響しないし。
そんな人たちも渡辺えり子のように私の知らないところで何かを抱えて生きているのかもしれないし。
知らないけど。

誰かをこうだからこう、という話しはあきまへんという話し。
しつこいけれど。

04.08.12:26

ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

なんだか韓国映画のようなタイトルである。
いつも不思議に思っていたのだが、どうして韓国映画はあんなにタイトルが長いのだろう?
「猟奇的な彼女」「親切なクムジャさん」あたりからどこか違和感を感じていたが、
「私の頭の中の消しゴム」では、私のようにタイトルにどこか引っ掛かる感を持っている人へのアピールかと思った。
なぜなら気になって仕方ないから、その作品を観に行くかもしれない。
新しい宣伝方法だな、やるなと思った。
そこでこの作品だが、歳をとってもの覚えが悪くなった私は一度聞いただけでは覚えない。
とりあえず、「ありえん近い」だけで覚えている。

誰かがこのタイトルはアスペルガーの人の感覚らしいと言っていた。
そうなの?と感じたのは、私にもその気があるからだと思う。

親しくしている人たちに発達障害がある人たちが多いからか、またはその人たちがとても魅力的で頭がよく、大好きなので発達障害ってたまに迷惑だけどむしろスゴイ!と思っている私は、発達障害は本などで勉強してわかるものではないと断言したい。
これも世の中ではよく、

「ゲイの人って~だよね」
「レズビアンの人って~だよね」

などと言う人がいるが、じゃあ

「男が好きな女って~だよね」
「女が好きな男って~だよね」

という話が成立するだろうか?
成立しないことは誰もが承知している事実である。

性格は100人いれば100人違うし、考え方も100通り。
だから私たちは「世界にひとつだけの花」なのである。ww
なので、同じように発達障害もそれを持っている人ごとに違う。
人の分類分けで、
「異性愛者」「同性愛者」「両性愛者」と大まかに分けられるように、
「発達障害」がある。
そう理解してもらいたいと思っているし、そうなんです。

で、この作品だが、あくまでも9・11は主人公オスカーにとっては新しい扉を開けるきっかけだなと思った。
彼に大きな影響を与えたのは「父親の死」。
9・11ではありません。
ただし、彼以外のNYの人たちには9・11が影響している人もいるのだろうけれど、そうでない人たちもいたのではないかと思う。
たまたまオスカーの父が死んだのが9・11のテロが原因であった、ということにすぎません。
だからもしかするとハドソン川に浮かぶ小舟が転覆して、それにたまたま乗っていた父親が死んだ、という話しにもなりえたのではないかということ。

あくまでもこの作品で私が感じたのは、アスペルガーの症状がある子どもが、何かのきっかけで今まではできなかったことを出来るようにがんばってみる(一番彼が頑張っていたのは、大好きな庇護者が急にいなくなったことを理解し、そのストレスを解消する、我慢すること)、そのために夫を失った妻が母親として初めて息子に向き合ってみる、という内容だった。
人づきあいがとても苦手で、そこに並々ならぬパワーを必要とする彼ら(アスペ)が、知らない人の家を訪ねることがどんなに大変なことか。
一度理解したことを覆されることが、どんなにしんどいか。
一度組み立てた考えを、もう一度組み立て直すことに、どれだけの力が必要か。
そのストレスが溜まりに溜まって大爆発するシーンが、オスカーがお祖父さんに今までの経緯や気持ちを一気にしゃべる、、、というシーン。

(オスカーが抱えた悲しみは、爆発しない。
誰だってそうだと思うが、悲しみは爆発しない。
身体や心に染みていつか溢れる。
爆発するのは抱えてしまった癒されないストレスです。)

オスカーが何か新しいことを始めたと気付いた母親が、彼に知られないようにいろんなお膳立てをする。
そこはあまりにも甘いように感じたが、つまりそこにNYの人たちが協力することこそが9・11がNYの住人に与えた影響なんだと思う。
9・11なくしては、そのシチュエーションはありえなかったのではないか?

かくしてオスカーは少し理解する。
初対面の人たちにも自分は会いにいけること、
下が見える橋だってなんとか通れること、
ブランコをこぐと面白いこと、
お父さんはビルから落ちていなくなったこと、
そしてお母さんも自分を愛していること。

傑作!、泣けたー!でもなかったけれど、最近ほんとに発達障害をテーマにした作品を、そのものズバリの診断名出してたくさん作られるようになったんだなぁとつくづく感じる。
それで「自分はまとも」だと思っている人たちがどれだけ理解しているのかは、はなはだ疑問だけれど。

発達障害がある人との付き合いはとてもしんどいし、たまにどうしてよいかわからなくなることもあるけれど、それでもその人が自分にとって大切な人ならばどんなにしんどくても理解しようとするし、こちらの事も理解してもらいたいと頑張る。(だいたい、「まとも」とはどんな人のことを言うのかも疑問だし、自分をまともだと言う人ほど馬鹿が多い)
それはどんな誰との付き合いでも同じです。
目の前にいる大切に思う「その人」を見て、考える。
あたりまえの事です。
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