11.25.04:04 [PR] |
05.23.21:23 アレクサンドリア ~映画~ |
もう少し話題になっても良いんじゃ?と思うのに、ほとんど話題になっていない残念な作品。
キリスト教に対して、あまりにも嫌悪感を持たせる作りになっているから?
以下、1987フォーラムに追記いれつつー。
4世紀のアレキサンドリア。
単純に考えれば、美しく聡明な天文学者で哲学者のヒュパティアは自分の信じる学問と信念に殉じた、というそれは立派なお話・・・なのですが、宇宙から見た「人間」という存在の何と小さなこと!
人々が生活したり、争っている様子を俯瞰する映像がたびたび出てくるのですが、人間的な弱さや宗教を描いているアメナーバル監督の視線、精神の大きさ、そして神ではなく、宇宙を含む大いなるものの視線がテーマなのでは?と思いました。
昼がきて夜がくるのはなぜなのか、なぜ丸いものから人が落ちずに立っていられるのか、まだ他の星々は地球を中心にまわっていると考えられていた時代に、ヒュパティアは考えます。
冬と夏の太陽の大きさが違うこと。
太陽の周りを地球が周っているなら、それはどんな軌道になるのか?
宇宙の秘密は学問で解明できると信じて。
彼女は暴徒と化したキリスト教徒に惨殺されるのですが(史実では裸にされて生きたまま貝殻で肉をそぎ落とされた)、そのような暴挙に遭ったのは信念に生きたからだけではなく、彼女のおごりもあったのでは。
奴隷を普段から普通に使う特権階級に生まれたおごり。
もうひとつ、これをおごりと言うのかは判りませんが、学問によって宇宙(自然)の領域に足を踏み入れたこと。
それらはまさに今、私たちが直面している原子力発電所の事故にも通じるものです。
人間が本来持ってはいけない知恵によって(旧約聖書的な考え方でいえば)自然界を操作したことによる事故。
ヒュパティアは「宇宙の謎を明らかにしたい」という純粋な思いで研究に没頭します。
それは研究者ならば当然の欲求でしょう。
しかし、いつしかそれが高じて私たち人間は今、自然の摂理までをも変えています。
その報いをいくつも受けているのです。
単純に学問の素晴らしさ、学ぶことの面白さ、それらに没頭できる純粋さは高貴で美しいです。
しかし、それらは一部の人間に許されたもので、多くの奴隷たちの犠牲によってもたらされたものでもありました。
ヒュパティアも何の疑いもなく、奴隷を意のままに使っていました。
それでも学問に打ち込む彼女は美しいし、ひとつの宇宙の謎が解き明かされたときの感動は、言葉にできないほどです。
千年以上前に、こんなに真摯に学問に打ち込む女性がいたことは、同じ女性としてとても誇らしく思えるほど。
私は実在の人物を描いた作品をあまり好きではありません。
作品だけでその人のことを語りそうになるからです。
しかし、女性として顔を上げ真っ直ぐに立っていること、男だとか女だとか関係なく学問は誰にでも等しく、頭上に灯りを照らすものだということ、その点目が覚める思いがする演出でした。
それと、悲しいほどのプラトニックな愛の形が切ないです。
プラトニックだけど、元奴隷ダオスのヒュパティアへの愛は最後、キリスト教的究極でした。。。
慈悲という名の。
彼はあの時ですら、キリスト教徒であり続けました。
無宗教の私には宗教を生きる拠り所にする人たちの気持ちは理解不能です。
自分が信じるのもが正しい。
だからその枠を超えるものは排除する。
決して共存しようとしない。
宗教で争うこと、私には矛盾しているとしか思えないし、言い争っている姿も田嶋先生と勝谷さんのああ言えばこう言うやり取りにしか見えない。
そんな人々の争いや営みを、何度も高い場所からの視線で描かれます。
今でも本を捨てることは身につまされる感じでとうてい出来ないのですが、焚書とか、本を邪険に扱う映像はイヤですねぇ。
どうしてあんなに野蛮に見えるのでしょうね。
レイチェル・ワイズが美しいです。
弟子のオレステスを演じたオスカー・アイザック、ダオスのマックス・ミンゲラも素敵でした。
で、地球の楕円の軌道がなんであんな風に導き出されたのか、誰か私にわかるように説明してください・・・
キリスト教に対して、あまりにも嫌悪感を持たせる作りになっているから?
以下、1987フォーラムに追記いれつつー。
4世紀のアレキサンドリア。
単純に考えれば、美しく聡明な天文学者で哲学者のヒュパティアは自分の信じる学問と信念に殉じた、というそれは立派なお話・・・なのですが、宇宙から見た「人間」という存在の何と小さなこと!
人々が生活したり、争っている様子を俯瞰する映像がたびたび出てくるのですが、人間的な弱さや宗教を描いているアメナーバル監督の視線、精神の大きさ、そして神ではなく、宇宙を含む大いなるものの視線がテーマなのでは?と思いました。
昼がきて夜がくるのはなぜなのか、なぜ丸いものから人が落ちずに立っていられるのか、まだ他の星々は地球を中心にまわっていると考えられていた時代に、ヒュパティアは考えます。
冬と夏の太陽の大きさが違うこと。
太陽の周りを地球が周っているなら、それはどんな軌道になるのか?
宇宙の秘密は学問で解明できると信じて。
彼女は暴徒と化したキリスト教徒に惨殺されるのですが(史実では裸にされて生きたまま貝殻で肉をそぎ落とされた)、そのような暴挙に遭ったのは信念に生きたからだけではなく、彼女のおごりもあったのでは。
奴隷を普段から普通に使う特権階級に生まれたおごり。
もうひとつ、これをおごりと言うのかは判りませんが、学問によって宇宙(自然)の領域に足を踏み入れたこと。
それらはまさに今、私たちが直面している原子力発電所の事故にも通じるものです。
人間が本来持ってはいけない知恵によって(旧約聖書的な考え方でいえば)自然界を操作したことによる事故。
ヒュパティアは「宇宙の謎を明らかにしたい」という純粋な思いで研究に没頭します。
それは研究者ならば当然の欲求でしょう。
しかし、いつしかそれが高じて私たち人間は今、自然の摂理までをも変えています。
その報いをいくつも受けているのです。
単純に学問の素晴らしさ、学ぶことの面白さ、それらに没頭できる純粋さは高貴で美しいです。
しかし、それらは一部の人間に許されたもので、多くの奴隷たちの犠牲によってもたらされたものでもありました。
ヒュパティアも何の疑いもなく、奴隷を意のままに使っていました。
それでも学問に打ち込む彼女は美しいし、ひとつの宇宙の謎が解き明かされたときの感動は、言葉にできないほどです。
千年以上前に、こんなに真摯に学問に打ち込む女性がいたことは、同じ女性としてとても誇らしく思えるほど。
私は実在の人物を描いた作品をあまり好きではありません。
作品だけでその人のことを語りそうになるからです。
しかし、女性として顔を上げ真っ直ぐに立っていること、男だとか女だとか関係なく学問は誰にでも等しく、頭上に灯りを照らすものだということ、その点目が覚める思いがする演出でした。
それと、悲しいほどのプラトニックな愛の形が切ないです。
プラトニックだけど、元奴隷ダオスのヒュパティアへの愛は最後、キリスト教的究極でした。。。
慈悲という名の。
彼はあの時ですら、キリスト教徒であり続けました。
無宗教の私には宗教を生きる拠り所にする人たちの気持ちは理解不能です。
自分が信じるのもが正しい。
だからその枠を超えるものは排除する。
決して共存しようとしない。
宗教で争うこと、私には矛盾しているとしか思えないし、言い争っている姿も田嶋先生と勝谷さんのああ言えばこう言うやり取りにしか見えない。
そんな人々の争いや営みを、何度も高い場所からの視線で描かれます。
今でも本を捨てることは身につまされる感じでとうてい出来ないのですが、焚書とか、本を邪険に扱う映像はイヤですねぇ。
どうしてあんなに野蛮に見えるのでしょうね。
レイチェル・ワイズが美しいです。
弟子のオレステスを演じたオスカー・アイザック、ダオスのマックス・ミンゲラも素敵でした。
で、地球の楕円の軌道がなんであんな風に導き出されたのか、誰か私にわかるように説明してください・・・
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