忍者ブログ

45style book Get real

広くて浅い頭で素直に頑張ります。
RECENT ENTRY RECENT COMMENT
[09/24 your eyes only]
[09/24 your eyes only]
[07/24 only your eyes]
[06/13 harupy-15]
[06/07 岡山のTOM]

04.27.13:58

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

  • 04/27/13:58

02.21.16:54

真摯と寛容とあきらめ

レスリー・キーの男性ヌード写真集で性器がでてるからどうのとか、AKBのアホっぽい女の子が乳首を男の子に触らせてるからとか、ちょっと前に話題になっていた。
AKBの子の写真は私ですら大丈夫なのかな?と心配になったぐらいなので、やはりというか早速次の日にはイカン!とお叱りが入った。

あれはタイトルがマズイ。
「とものことすき?」
というタイトルで表紙があれでは絶対に性的な想像をするに決まってる。
もし、
「赤ちゃん ばぶー」や
「天使がついてる」
「うしろの正面だーれだ?」
だったら、そこまで言われなかったのではないだろうか。
ただAKBは真理子さまにこじはるが元気で可愛いければ私には何の問題もないので、あのアホっぽい子がどうなろうと知ったことではない。

ryuubi2_00.jpgレスリー・キーの場合は随分違う。
男性器がバッチリ写っているからということだったが、それはそれで別にかまわないのではないか。
その写真を観てないから何とも言えないけれど、浜崎あゆみの元旦那写真集「スーパーマニュエル」は、男性器は写ってないけれどおしりの穴あきパンツとか、股間のふくらみがすっごく強調されたカットとか、サンセバスチャンの殉教ぽいポージングとかゲイ色満載で、猥褻画像ー!というくくりで言われるならば同じぐらいエッチかなと思う。
男性器写真を観てないから何ともいえないけれど。

男性器写真=猥褻ということなのだろうか?
さすがに女性器写真というのは公にはまかり通らない。
あそこを芸術にするにはかなりな技術がいると思う。
だから性的興奮目的のエッチなビデオにしか登場しない。
そういうのを猥褻画像というんだと思う。

どこかでダビデ像のことも話題になっていた。
それも男性器で。
私は学生の頃、美術かなんかの本の写真で見た時に、ぶどうが下がっていると勘違いしていた。
そんなものだ。

レスリー・キーはアーティストなんだから、彼なりの主張があるはずだ。
それを聞かずに一方的に決めつける愚かしさ。
芸術の何たるかも知らない輩がするようなことだ。
文学、絵画、彫刻、写真、映画、
全てそうだ。
意味がわからなければ考えたり、尋ねたりすれば良い。
尋ねたら大島渚みたいに「ばかっっっ!」と怒られるかもしれないけれど、意味がわからないんだから尋ねて何が悪い?と逆に言えば良い。
何も尋ねずに勝手な解釈でどーのこーの批評する輩よりもよっぽど真摯だ。

けれど、どうも近頃周りがあまりにバカばかりで驚くことばかりだ。
困った風潮なのが映画館の予告編を観ていて、
「チャーリーとチョコレート工場の監督作」
なんという監督の紹介のやり方をするものの多いこと!!!!
なんでだろう?

書きものを読んでいても、感動する=泣ける、ですませたり、何かの事象を語る際に、書き手の主観を入れることが多い。
「○○さんの生き方には感動させられっぱなしだ。」とか。
それは書いてるあなたはそうかもしれないけれど、そうすると読み手は「へえー感動するんだー」で終わる。
多分、それで「感動なんだ、この人の生き方は」と読んでおしまいなんだろう。
出す側からそう書けなんてことを求められたりもするのでどうしようもない。

どうしてこうも「考えること」をしなくなったんだろう。
残念だわーと思うんだけれど、そんな大多数の支持が世間の評価になるのだからこれはもうどうしようもない。
ああ、、、あんな人の言うことにいちいち腹を立てても仕方ない、バカがうつる。
と、自分で自分をヨシヨシしながら、いろんな場面でいったい・・・・?と感じることが多くなってきたのは歳をとった証拠なんだろうか。
PR

12.14.23:38

私は生まれなおしている

7251ee09.jpegスーザン・ソンタグの「良心の領界」を読んだのは何年前だったろう。
本にアンダーラインなんて普通引かないけれど、この本だけはアンダーラインだらけだ。
彼女の言葉、そしてこうありたいと願う姿勢が好きだ。


傾注すること
真摯であること
真実を語ること

その3つの言葉に人が人と生きていくうえで大切なことの全てがあると私は思う。
豊かな知性を持つことは、とてもセクシーで魅力的なことなのだと、彼女を知って感じた。
彼女が生きていたなら!
いや、彼女が生きていなくても、私は彼女が会いたいと思ってくれる女性になりたい。
スーザン・ソンタグが会いたいと思ってくれる女なら、きっと思慮深く、広い視野を持ち、何ごとにも真摯に取り組み、自分にも他者にも心をいつわらず、そしてとても美しく魅力的にちがいない。

スーザン・ソンタグ14歳から30歳までの日記が彼女の死後、息子のデヴィッド・リーフ編集で発刊されている。
先週、Amazonで中古を安くで手に入れた。
バカバカしい選挙、自民党や維新を支持する国民やそれを煽るマスコミのいやらしさを忘れたい。
大好きなアイスクリームやプリンを食べるみたいに、ちょっとずつもったいつけて読んでいる。

自分が知性に牛耳られるのを許すつもりはないし、知識とか知識のあるひとを崇拝するなんてとんでもない!
知識と称して事実を着々と溜めこむのは勝手だけど、これだけは要求する。
知識の集積は、基本的な感受性の反映としてなされるべきだと。
私はあらゆることをやるつもり。
経験を評価するひとつの方法を身に付けるため。
それは自分に歓びか痛みか、どちらをもたらすか、それが基準。
で、きわめて注意深く痛みをともなうことを拒むつもり。
また、あらゆる場所に歓びがあるはずだという期待を捨てず、歓びを見つけるつもり。
それはどこにでもあるんだから!
44163897.jpeg全面的に没入する・・・あらゆることが大切だ!
私が放棄してもいいと思うのはただひとつ、あきらめる権利、引きさがる権利、それはなくてもいい。
順応と知性とを唯々諸々と受け入れること、そんな権利はいらない。
私は生きている・・・・・私は素晴らしい・・・・・・ほかに何かある?
   
~1949,5,23の日記~

これだけの自分自身への真っ直ぐな思いを16歳の彼女がつづっている。
そしてこの思いは53年たった2002年、来日して語ったときと何ら変わっていなかった。
「私は生きている、私は素晴らしい」
これはただのナルシズムの言葉ではない。
思春期においては、たしかに自己に深く入り込み自己を見つめる。
はたして私は正しいのか?間違っていないか?自問自答する。
手放すことのできない自我を自分でなぐさめ、なんとか折り合いをつけ、そして生きて行く。
その気持ちが痛いほど込められた言葉だ。

あの世で私は彼女を探す。
心からそうしたいと願っている。

あなたなら何と言うだろう。
                                  
 

11.01.16:19

未来は巻き取る

あれから3年経ったんだなと、夕べ娘の同級生がFBにつぶやいていて、
そのつぶやきに同じ小学校だった子たちが何人も返信していた。
そうだね、うん。
昼間、同じことを思い出していたよと私も返信した。
あれから、、、それはとても不幸な事故だった。

あの年、私は春に弟を亡くした。
秋、運動会が終わり、初冬の風が吹き始めたころ、ある少年が亡くなった。

春の風がとても強い日、
私はひとりで弟が亡くなっていた海岸に行った。
彼の車が寂れた駐車場の隅に停まってた。
ぼろぼろの駐車場、一番端っこに停められた青いフェアレディにはひどい違和感があった。
彼が死に場所に選んだ廃墟のようなあの場所が何だかとても怖かった。
いちゃいけない気がした。

11月、少年の棺を載せた黒い霊柩車は小学校の運動場を走った。
運動場には1年生から6年生までがぐるっと周りを囲んでいた。
少年が同じ学年のみんなと合唱で歌った「With you smile」が流れていた。
もう二度とあんな光景は見ることはないだろう。
見ちゃいけないと思った。

あの年、私はやりたかった仕事をやっと始めることができた。
そのころ弟が失踪した。
少しの間にいろいろあった。
また彼に邪魔をされたと思った。
でも彼の腐った死体を見たときに、それまで私が持っていた感情などあまりにもバカバカしくぶっとんだ。
好きも嫌いも見栄えも金も地位もなにも、ホントは何の意味もない。

死と再生は同じ場所にある。
それは私が気付いた真理だ。
同じ根っこから生まれた弟を亡くして、
少年の霊柩車を見ていた私が、3年かかってはっきり気付けた。
彼らはそんな風に、必ず誰かに何かを残している。
少年は今でも11月が近づくと、同級生たちに何かを思い出させる。
彼らはきっといつか、今以上のなにかを感じることがあるだろう。
それはとても大切なことだ。

弟も少年も、もしかすると今頃は世界中のどこか、もしかすると宇宙のどこかで生まれ変わり、笑っているかもしれない。
まだあの世と呼ばれるところにいるのかもしれない。
それはわからないけれど、私や、私の住んでる町に住む14歳の少年や少女たちの心の中にちゃんといる。
そして何かを必ず気付かせる。
また何年か経ったとき、この時のためにあの日があったんだと、誰もが思う時が必ずくる。
tree_of_life_teaser.jpg
11月1日、そういうことを考える。









10.27.14:35

守っていきたいこと

私は橋下市長が嫌いです。
強気に話をしていても、中身が一貫しなかったり、
石原慎太郎をヨイショしてる姿をみると、
アンデルセンの童話を見ているようだから。

石原慎太郎も嫌いです。
ただのわがままオジサンなのに、
いったいどうしてあんな人を「リーダーシップがある」
なんて印象を持つ人がいるのか不思議。
がーーーーーーーーーーっ!と弱い立場の人に文句たれること、を
リーダーシップとは言いません。
それに、都知事の任期半ばで辞任して国政に、なんて
無責任もはなはだしい。
これだけ個人が自分勝手に行政や票を動かせるなんて、
ありえん。

ま、こっちでも似たようなものだけれど。

多様性にyes!でレインボーのストラップをつけている。
これは私自身にも言い聞かせていることだけれど、
ひとつの物事を考える時に、必ず色んな方向からアプローチをする。
決して一方向からではいけない。
何かを決めるときには、
それがどのような事柄なのか、
なぜ、それを決定するのか、
なんのために決定するのか、
考えて意見を出す。
そして、色んな意見を聞いて、
まとめて、決定する。
特に団体で何かを話し合うとき、
多数派の意見ではなく、
少数派の意見に耳を傾ける。
少数派の中にこそ、
新しいアプローチがある。

そうできてこそ成熟した団体、成熟した社会、本当の民主主義だと思う。
誰かの鶴の一声に沿って多数決で決定、それこそが民意、そうじゃない。
絶対に違う。
それこそが愚かで恐ろしい粛清の行われたソビエトやイタリア、中国のあの時代の人々だ。

と、もう一度自分自身に言い聞かせてみる。
ryuubi2_00.jpg












10.20.01:26

とある縁で延岡の薪能を観に行った。
今年になって能がどんなものなのかを知る機会があり、多分まだ能の世界の氷山の一角だけしか判ってないんだけど、
生と死が演劇の中に普通に存在している見世物だということに興味がわき、これから何かにつけ能は追っていこうと思っている。

今年で16回の延岡天下一薪能は宮崎映画祭みたいに全員ボランティアで運営するそうだ。
宣伝、セッティング、当日の運営、たくさんの人たちが動いていた。
延岡にあった文化を掘り起こして、それを基に16年も続けている。
文化の再生だ。
すごい。

能は、わかる人にしかわからないものでいいと思う。
takiginou4.jpg物語を事前に調べておかなければ、意味がわからない。
大きな動作も動きもないし、
もちろん、面の表情も動かない。
だからこそ観る人の想像力をかきたてる。
面の表情は動く。
動かないけど動く。
切ない別れや、狂おしいほどの怒りや、ほとばしる愛情が見える。
とても美しい。

死がとても身近にあった時代の芸能。
鼓や笛やお囃子も、空気を切るように凛としていた。
takiginou1.jpg
11月になると各地で神楽も始まる。
宮崎の秋が深まって来る。









<<< PREV     NEXT >>>