11.29.08:44 [PR] |
12.15.09:12 未来を生きる君たちへ ~映画~ |
ここのログインパスワードを忘れそうなぐらい更新してなかった。。。
11月から昨日までゆっくりいくつも映画観たり、ブログ打ったりする時間が本気でなかったー。
そう言いながら、実は東京で「恋の罪」を観た。
すーごく語りたいけれど、まだ宮崎未公開なので我慢する。
やはりいつもの園監督だったなという印象は変わらなかった。目立つぞ、ブルース・・・悪い意味で。。。
昨日観た「未来を生きる君たちへ」
アフリカとデンマーク、この二つの物語には理不尽な行為に傷つけられる人、傷つける人が登場します。
そしてそこに、ただ存在する自然の姿。
そこにある自然に、傷ついた心をゆだねるように、体を預ける人の姿。
ただそこに存在する自然、それに癒されようとする人の姿。
その姿は、登場人物の中で誰よりも優しく大きな心を持つ少年エリアスそのもののような気がします。
彼は誰よりも優しいから誰よりも傷つけられるけれど、彼の大きな心、損得ではなく心からの犠牲を見たことによって頑なだったクリスチャンの心が溶けていきます。
それはまるで傷ついた心と体を湖に浮かべ、たゆたうエリアスの父親の姿のようです。
エリアスの父親もまた、息子の大きさを知ることによってアフリカで怒りにまかせて彼が行ってしまった行為から気持ちを切り替えることができたのではないでしょうか。
でも、人間です。
同じように怒りにまかせて再び愚かなことをするかもしれません。
それでも何度でも私たちは悔いながら、改めながら、生き直しながら暮らしている。
そんなものではないかと思います。
何があっても愚かな人がいる。
愚かだった自分に気づいて生き直す人もいる。
それでもまた愚かなことをするかもしれない。
それで良いと思います。
そんな人間たちを地球は抱えて回っています。
山は大きく、海は青く、空は高く美しく、いつだって変わらずに私たちを包んでいます。
あの大きな自然の中で人間がいったいどれだけのものなのでしょう。
どんなに虚勢を張っても、心の弱さから誰かを傷つけても、暴力にうったえても、それらがどんなに小さく愚かであるか。
思春期の子どもを持つ親としても、とても考えさせられる作品でした。
クリスチャンの苛立ちや怒り、強くありたいと願っている姿は、すごく理解できました。
エリアスの悲しみもすごく理解できました。
自分もそんな時期を通ってきたなぁと感じ、今、私が娘に対して彼女が必要としているときにその思いを受け止めている自分であるか?考えました。
道徳の教科書のように正しいことばかりできる人間はいませんし、いたとしたらそんな人、堅苦しくて気持ち悪いです。
公平に平等に、をモットーにして、人数分ないからと配給の品物を配ることをしなかったどこかの避難所みたいなもの。
でも、清い理想論ではそれが正しいのです。
世の中を生きるにはそれだけではダメだと知ったとき、クリスチャンのように傷ついて、反発するのではないでしょうか。
耳を傾けること、真実を伝えること、真摯に生きること、小さな私たちにできるのはそういうことだと思っています。
そうして少しでも大きな心を持つこと。
やられる前にやれ、やられたらやり返せ、力だけで解決するような事柄を許してはいけません。
自分の中の弱さを見つめることができない人間が、そんな見せかけだけの強さに頼ります。
それでも周りには必ずそんな人がいます。
ならばそんな人とは関わらない。
傷つきながら少しずつ、スムーズに暮らすすべを見つけて行くこと、この作品では色んな事柄が交錯するように見え、実はとてもわかりやすく伝えてくれていたと思いました。
自然のように「赦し」を惜しみなく与えることができない人間ならば、「向きあう」しかありません。
それができない他人ならば関わらない。
親子ならば、親が真摯であれば必ずいつか赦しあえると信じます。
ある意味、面白いつくりの作品でした。
11月から昨日までゆっくりいくつも映画観たり、ブログ打ったりする時間が本気でなかったー。
そう言いながら、実は東京で「恋の罪」を観た。
すーごく語りたいけれど、まだ宮崎未公開なので我慢する。
やはりいつもの園監督だったなという印象は変わらなかった。目立つぞ、ブルース・・・悪い意味で。。。
昨日観た「未来を生きる君たちへ」
アフリカとデンマーク、この二つの物語には理不尽な行為に傷つけられる人、傷つける人が登場します。
そしてそこに、ただ存在する自然の姿。
そこにある自然に、傷ついた心をゆだねるように、体を預ける人の姿。
ただそこに存在する自然、それに癒されようとする人の姿。
その姿は、登場人物の中で誰よりも優しく大きな心を持つ少年エリアスそのもののような気がします。
彼は誰よりも優しいから誰よりも傷つけられるけれど、彼の大きな心、損得ではなく心からの犠牲を見たことによって頑なだったクリスチャンの心が溶けていきます。
それはまるで傷ついた心と体を湖に浮かべ、たゆたうエリアスの父親の姿のようです。
エリアスの父親もまた、息子の大きさを知ることによってアフリカで怒りにまかせて彼が行ってしまった行為から気持ちを切り替えることができたのではないでしょうか。
でも、人間です。
同じように怒りにまかせて再び愚かなことをするかもしれません。
それでも何度でも私たちは悔いながら、改めながら、生き直しながら暮らしている。
そんなものではないかと思います。
何があっても愚かな人がいる。
愚かだった自分に気づいて生き直す人もいる。
それでもまた愚かなことをするかもしれない。
それで良いと思います。
そんな人間たちを地球は抱えて回っています。
山は大きく、海は青く、空は高く美しく、いつだって変わらずに私たちを包んでいます。
あの大きな自然の中で人間がいったいどれだけのものなのでしょう。
どんなに虚勢を張っても、心の弱さから誰かを傷つけても、暴力にうったえても、それらがどんなに小さく愚かであるか。
思春期の子どもを持つ親としても、とても考えさせられる作品でした。
クリスチャンの苛立ちや怒り、強くありたいと願っている姿は、すごく理解できました。
エリアスの悲しみもすごく理解できました。
自分もそんな時期を通ってきたなぁと感じ、今、私が娘に対して彼女が必要としているときにその思いを受け止めている自分であるか?考えました。
道徳の教科書のように正しいことばかりできる人間はいませんし、いたとしたらそんな人、堅苦しくて気持ち悪いです。
公平に平等に、をモットーにして、人数分ないからと配給の品物を配ることをしなかったどこかの避難所みたいなもの。
でも、清い理想論ではそれが正しいのです。
世の中を生きるにはそれだけではダメだと知ったとき、クリスチャンのように傷ついて、反発するのではないでしょうか。
耳を傾けること、真実を伝えること、真摯に生きること、小さな私たちにできるのはそういうことだと思っています。
そうして少しでも大きな心を持つこと。
やられる前にやれ、やられたらやり返せ、力だけで解決するような事柄を許してはいけません。
自分の中の弱さを見つめることができない人間が、そんな見せかけだけの強さに頼ります。
それでも周りには必ずそんな人がいます。
ならばそんな人とは関わらない。
傷つきながら少しずつ、スムーズに暮らすすべを見つけて行くこと、この作品では色んな事柄が交錯するように見え、実はとてもわかりやすく伝えてくれていたと思いました。
自然のように「赦し」を惜しみなく与えることができない人間ならば、「向きあう」しかありません。
それができない他人ならば関わらない。
親子ならば、親が真摯であれば必ずいつか赦しあえると信じます。
ある意味、面白いつくりの作品でした。
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