11.25.01:34 [PR] |
03.01.23:18 あしたのジョー ~映画~ |
だいたいアニメの実写版なんて作る方が間違ってると思っていた。
それも私が愛してやまないジョーを!
ジョーだんじゃない!だいたい、山Pなんかがあたしのジョーになんかなれるハズない!
そう思っていた。
この間のヤマトが凄すぎたし。
ところがこの作品、良い意味で期待外れ。
最初から最後まで、しっかりハマってしまった。
冒頭、アニメ一作目のジョーのテーマが流れてくる。
工場の煙突から煙が出ている、夕暮れ時だ。
あー、ジョーがこの色を背にして口笛吹きながら歩いてくるのよ・・・
それが山Pのシルエットだと知っていても胸がぎゅっとする。
ドヤ街の人々、冷たい雨、街かどにうずくまるジョー。
それだけで目頭が熱くなる。
河原に寝そべるジョーのコートのポケットから、チビ連が何か拝借しようと近づいてくる。
「何もねえぜ」
ジョー!!!!もうたまらん。
自分でもびっくりするほどハマってしまった。
その後のドヤ街でのケンカのシーンは、殺陣がとても上手だった。
作り物なのに自然で、実にナチュラルに殴り合っていた。
そう、この作品はボクシングのシーンがなんといっても素晴らしかった。
こんなに普通にドキドキさせるボクシングの試合シーンは初めてだった。
おまけに物語の流し方がとてもうまい。
段平に出会って少年院に入るまでや、「明日のために~その1」から少年院を出るまで、少年院時代のポイントはちゃんと押さえてあるし、削るところはしっかり削って編集がうまい!
それは最後まで感じた。
減量に苦しむ力石がアッパーだけを練習していたことが出てこなくても、力石の死からラストまでの流れも全然オッケー。
どのあたりでラストになるんだろう?と思っていたが、ここしかないな、というところでちゃんと終わっていた。
惜しむらくは白木葉子。
付け足した出生の秘密は余計~。
全然その後との関連性ないし、力石が少年院に入った原因としてもなんで原作のままにしなかったのか?わからん。
確かに力石との死闘までの葉子は地味だ。
白湯をどうぞ、と差し出すぐらいしか見せ場はない。
だからといって地味なだけのキャラではない。
作品の中では掃き溜めにツルの役どころなので、下町の太陽的紀ちゃんとはまた違い重要なのだ。
なので、そこに居るだけで目を引く、おっ♪と気にせずにはいられないような女優を使うべきだった。
香里奈では役不足。
だが、そんな部分を差し引いてもこの作品は良かった。
最初から最後まで、目頭が熱くて熱くて、観終わったあとの私の目がどれだけ腫れていたことか。
私だってリングアナなら一度で良いからアナウンスしたい。
赤コーナー117パウンドー 矢吹ー丈~
青コーナー118パウンドー 力石ー徹~
とか、カーロスーリーベラーとか、ホセーメンドーサーとか!
死ぬ間際に自分のグラブをジョーに託す、そう葉子に告げたというフィクションも許す。
そうであってほしいなんて、私もちょっと思ってたから。
アニメと同じような服装していても許す。
段平が同じような顔にされていても許す。
そのあたりは原作は原作、映画は映画で変えてもらっていいんだけど・・・・と思うが、まあいい。
何だか、うおうお言ってたウルフも、何故かゴロマキ権藤も、紀ちゃんがいなくても、いい。
許す!
そうだ、紀ちゃんが出てきてないということは、続編などないということだ。
青春を謳歌する、という意味を問う紀ちゃんがいなければ、ジョーは誰にも「真っ白な灰だけだ・・・」なんて言えないはずだ。
そうだ、今気付いた。
良かった!続編はいらない、この作品の終わり方で十分だ。
ジョーが生きている。
あしたを目指して生きている。
たとえ映画の中だけでもいい。
ジョーが生きていて、泪橋の下でサンドバックを叩いている。
そう思えることが何よりも嬉しい。
それも私が愛してやまないジョーを!
ジョーだんじゃない!だいたい、山Pなんかがあたしのジョーになんかなれるハズない!
そう思っていた。
この間のヤマトが凄すぎたし。
ところがこの作品、良い意味で期待外れ。
最初から最後まで、しっかりハマってしまった。
冒頭、アニメ一作目のジョーのテーマが流れてくる。
工場の煙突から煙が出ている、夕暮れ時だ。
あー、ジョーがこの色を背にして口笛吹きながら歩いてくるのよ・・・
それが山Pのシルエットだと知っていても胸がぎゅっとする。
ドヤ街の人々、冷たい雨、街かどにうずくまるジョー。
それだけで目頭が熱くなる。
河原に寝そべるジョーのコートのポケットから、チビ連が何か拝借しようと近づいてくる。
「何もねえぜ」
ジョー!!!!もうたまらん。
自分でもびっくりするほどハマってしまった。
その後のドヤ街でのケンカのシーンは、殺陣がとても上手だった。
作り物なのに自然で、実にナチュラルに殴り合っていた。
そう、この作品はボクシングのシーンがなんといっても素晴らしかった。
こんなに普通にドキドキさせるボクシングの試合シーンは初めてだった。
おまけに物語の流し方がとてもうまい。
段平に出会って少年院に入るまでや、「明日のために~その1」から少年院を出るまで、少年院時代のポイントはちゃんと押さえてあるし、削るところはしっかり削って編集がうまい!
それは最後まで感じた。
減量に苦しむ力石がアッパーだけを練習していたことが出てこなくても、力石の死からラストまでの流れも全然オッケー。
どのあたりでラストになるんだろう?と思っていたが、ここしかないな、というところでちゃんと終わっていた。
惜しむらくは白木葉子。
付け足した出生の秘密は余計~。
全然その後との関連性ないし、力石が少年院に入った原因としてもなんで原作のままにしなかったのか?わからん。
確かに力石との死闘までの葉子は地味だ。
白湯をどうぞ、と差し出すぐらいしか見せ場はない。
だからといって地味なだけのキャラではない。
作品の中では掃き溜めにツルの役どころなので、下町の太陽的紀ちゃんとはまた違い重要なのだ。
なので、そこに居るだけで目を引く、おっ♪と気にせずにはいられないような女優を使うべきだった。
香里奈では役不足。
だが、そんな部分を差し引いてもこの作品は良かった。
最初から最後まで、目頭が熱くて熱くて、観終わったあとの私の目がどれだけ腫れていたことか。
私だってリングアナなら一度で良いからアナウンスしたい。
赤コーナー117パウンドー 矢吹ー丈~
青コーナー118パウンドー 力石ー徹~
とか、カーロスーリーベラーとか、ホセーメンドーサーとか!
死ぬ間際に自分のグラブをジョーに託す、そう葉子に告げたというフィクションも許す。
そうであってほしいなんて、私もちょっと思ってたから。
アニメと同じような服装していても許す。
段平が同じような顔にされていても許す。
そのあたりは原作は原作、映画は映画で変えてもらっていいんだけど・・・・と思うが、まあいい。
何だか、うおうお言ってたウルフも、何故かゴロマキ権藤も、紀ちゃんがいなくても、いい。
許す!
そうだ、紀ちゃんが出てきてないということは、続編などないということだ。
青春を謳歌する、という意味を問う紀ちゃんがいなければ、ジョーは誰にも「真っ白な灰だけだ・・・」なんて言えないはずだ。
そうだ、今気付いた。
良かった!続編はいらない、この作品の終わり方で十分だ。
ジョーが生きている。
あしたを目指して生きている。
たとえ映画の中だけでもいい。
ジョーが生きていて、泪橋の下でサンドバックを叩いている。
そう思えることが何よりも嬉しい。
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11.26.14:34 Space Battleship ヤマト~映画~ |
大好きだった天海祐希を一度で嫌いにさせた「千年の恋~ひかる源氏物語~」や、監督の思想の落しつけに憤慨した「キャタピラー」。
そして今年、新たに最低映画が登場した。。。
それは「Space Battleship ヤマト」。
出演者全員がたいして演技の上手な人たちではなかったにせよ、これはひどい・・・ひどすぎる。
ネタバレもなんもあったもんじゃなし!こんな映画。。。。なので考えなしに出す。
もとは「宇宙戦艦ヤマト」。
放射能除去装置をもらうためにイスカンダルへ旅立つところまでは同じ。
でもでも、いったい何故地球がガミラスに攻撃を受けているのか、なんでデスラー総統がターミネーターやプレデター化しているのか、そもそもガミラスはそんな攻撃を地球にやっていてどーやってこの先生きていこうとしているのか、さっぱり意味不明・・・・・・
キムタクと黒木メイサはいつからそんな仲になってしまったのかもわからず、最後の子どもはどう考えてもキムタクの子のように思えるが、いつした?あのとき?波動砲が充填する間?。。。
別れのシーンでも、えらくタイミングよく登場した緒方直人・・・見てたのか?
何がいけないといって、ストーリーに繋がりがなさすぎる。
俳優たちが演じているシーンを、すごくヘタな編集で繋げている雰囲気。
ヘタな演技をヘタな編集しているので、救いようのないヘタぶり。
キムタクはうっとおしく、緒方直人は馬鹿っぽく、西田敏之と柳葉敏郎はウザく、黒木メイサは何であんなに機嫌が悪いのかわからん・・・いつもなら大嫌いな人だけど、表情が変わらずベッドに寝てるだけのおとなしい山崎努が一番良かった。
この挨拶のポーズは同じ・・・
ユニフォームも同じ・・・
でもストーリーは別もの。。。
亡くなる人たちが多いのに、それがどうみても子どもの頃にやっていた戦争ごっこで撃たれてぐわ~~っと倒れていく子どものよう。
松本零士はあれだけマッキーを訴えたんだから、この作品に怒ってもいいようなものの、「復活編」にも何も言ってないんだろうか。
原作!と銘打っていた西崎義展は不審死していたが、ヤマトを「復活編」といいこの作品といい、これだけ凌辱したのだから、もしかすると何かあったのでは?と勘繰りたくもなる。
それぐらいのトンデモ映画だ。
私はヤマトに何の思い入れもないから構わないが、それにしてもなんで今頃になって、寄ってたかってヤマトをこんなにするんだろう・・・
なんでヤマトなんだ・・・・
というか、999でなくて良かった・・・・・
来年はジョー・・・・・・・泣きたい。
そして今年、新たに最低映画が登場した。。。
それは「Space Battleship ヤマト」。
出演者全員がたいして演技の上手な人たちではなかったにせよ、これはひどい・・・ひどすぎる。
ネタバレもなんもあったもんじゃなし!こんな映画。。。。なので考えなしに出す。
もとは「宇宙戦艦ヤマト」。
放射能除去装置をもらうためにイスカンダルへ旅立つところまでは同じ。
でもでも、いったい何故地球がガミラスに攻撃を受けているのか、なんでデスラー総統がターミネーターやプレデター化しているのか、そもそもガミラスはそんな攻撃を地球にやっていてどーやってこの先生きていこうとしているのか、さっぱり意味不明・・・・・・
キムタクと黒木メイサはいつからそんな仲になってしまったのかもわからず、最後の子どもはどう考えてもキムタクの子のように思えるが、いつした?あのとき?波動砲が充填する間?。。。
別れのシーンでも、えらくタイミングよく登場した緒方直人・・・見てたのか?
何がいけないといって、ストーリーに繋がりがなさすぎる。
俳優たちが演じているシーンを、すごくヘタな編集で繋げている雰囲気。
ヘタな演技をヘタな編集しているので、救いようのないヘタぶり。
キムタクはうっとおしく、緒方直人は馬鹿っぽく、西田敏之と柳葉敏郎はウザく、黒木メイサは何であんなに機嫌が悪いのかわからん・・・いつもなら大嫌いな人だけど、表情が変わらずベッドに寝てるだけのおとなしい山崎努が一番良かった。
この挨拶のポーズは同じ・・・
ユニフォームも同じ・・・
でもストーリーは別もの。。。
亡くなる人たちが多いのに、それがどうみても子どもの頃にやっていた戦争ごっこで撃たれてぐわ~~っと倒れていく子どものよう。
松本零士はあれだけマッキーを訴えたんだから、この作品に怒ってもいいようなものの、「復活編」にも何も言ってないんだろうか。
原作!と銘打っていた西崎義展は不審死していたが、ヤマトを「復活編」といいこの作品といい、これだけ凌辱したのだから、もしかすると何かあったのでは?と勘繰りたくもなる。
それぐらいのトンデモ映画だ。
私はヤマトに何の思い入れもないから構わないが、それにしてもなんで今頃になって、寄ってたかってヤマトをこんなにするんだろう・・・
なんでヤマトなんだ・・・・
というか、999でなくて良かった・・・・・
来年はジョー・・・・・・・泣きたい。
10.06.09:11 幸福の黄色いハンカチ ~映画~ |
私は、こんなに有名な作品を今まで観てなかった。
お恥ずかしいが。
ラストシーンだけはしょっちゅう色んな場所で観ていたが、全編通して観たことがなかった。
だってポスターにも使われているぐらい、最初からネタバレしてるし。
デジタルリマスター版(意味はわからないが、古いフィルムをきれいにした?)が劇場で公開された。
リバイバルはとても嬉しい。
往年の名作を劇場で観ることができるなんて、幸せだー。
ということで、1987フォーラムに気合を入れたので、あそこで語れなかったことを入れてみる。
高倉健、「網走番外地」や「昭和残侠伝」の時にも感じていたのですが、可愛い。。。
凛としていて、格好良くて綺麗で、そしてすごく可愛い。
素敵ですねぇ。
あんな健さんだから、ラストシーンがぎゅっとくるんだなぁと思いました。
顔をくしゃくしゃにして武田鉄矢と桃井かおりに無言で別れを告げ、地面を踏みしめるように歩いて、そして、
(多分)何も言わず、ハンカチを見上げる姿、格好良かったなぁ。。。。
ラストは全員セリフ無し。
そこもいい。
武田鉄矢と桃井かおりのキスシーンはなくてもいいとは思ったのですが、許せる範囲だったのでよしとする。
この作品に出演するまでは、ヤクザ映画の人だった高倉健。
これ以降、現代劇にも登場することになるのですが、残念なことに、彼ほどの俳優をしっかりと使いこなすことのできる監督がいないのか、現代劇(というのかわからないが)で、良いと思ったことはあまりないように思う。
「あ、うん」ぐらいかなぁ・・・・・・・ちょっと軽い実業家の役で、似合ってた。
何にしても、自衛隊出身者とか、昔はヤクザだったとか、そういう設定が多いと思う。
なので、映画がワンパターンになりやすいのは否めない。
でも、昔の俳優さんは型にハマった役を演じる、のが常ではありました。
そんな、昔ながらの俳優だからこそ、燦然と輝いて見えるのかもしれません。
この作品、「あ、こういうことなんだな」という演出が綺麗にはまる作品です。
登場人物たちの心の軌跡が、ラストに向かうにつれピッタリとつじつまが合う。
つじつまの合い具合も、あたたー、それはないやろう・・・と感じさせるようなものがない。
色んな場所で、何度も観たことのあるラストシーンも、そうなると判っていてもぐっとくる。
映画の流れが、大団円を迎えるからですね。
教科書のような作品ともいえるかもです。
ですが、面白味がない、という意味ではありません。
演技者全てがすばらしい俳優陣です。
映画、という場所で生きてきた人たちだからでしょうか、スクリーンに登場しただけで、その場所にピタッとハマって、大きく主張するでもなく、ちゃんとそこにいるんです。(虎屋のおばちゃんとか)
山田監督のもとで仕事をしている人たちだ、と観客も知っているので、そんなカメオ出演に気付いたときにホッとする、温かい気持ちになるし、安心するんですね。
山田洋次監督作品だからできるのでしょう。
健さん以外、倍賞千恵子はもちろん、映画初出演だったという武田鉄矢、彼もおばかさんで軽薄な若者役でしたが、ドタバタも許せる範囲で上手だったし、だんだんと真面目になっていく過程がわかる。
桃井かおりも、登場した時とラストの表情がまるで違う。
彼らがどうしてそう変化していったのか?という心の軌跡がちゃんと描かれているからだと思います。
その演出にきっちりと応えている彼らも素晴らしい。
私、近頃映画を観るたびになーんか憤りを感じてたのですが、この作品を観て、まさに幸せな気分になりました。
昔、人々が映画を娯楽として楽しみにしていたように、単純だからこそ
素直に心に訴える作品っていいなぁと思いました。
単純なこと、それは物語もそうなのですが、「自分自身と向き合う」という大切な姿勢の事でもあります。
他の誰かと比較して寂しがったり、虚しい気持ちになったり、そんな人物像が最近多いと思います。
この作品に出てきた若者ふたりがそうですが、それじゃいけない、ということを健さん演じる勇作と知り合って気付いていくんです。
そんな姿が描かれています。
だから観ていて気持ちが良いのだと思います。
日向でも上映されますね!
山田監督や倍賞千恵子も来場するそうですよ。
私事ですが、チケット購入しましたー♪
お恥ずかしいが。
ラストシーンだけはしょっちゅう色んな場所で観ていたが、全編通して観たことがなかった。
だってポスターにも使われているぐらい、最初からネタバレしてるし。
デジタルリマスター版(意味はわからないが、古いフィルムをきれいにした?)が劇場で公開された。
リバイバルはとても嬉しい。
往年の名作を劇場で観ることができるなんて、幸せだー。
ということで、1987フォーラムに気合を入れたので、あそこで語れなかったことを入れてみる。
高倉健、「網走番外地」や「昭和残侠伝」の時にも感じていたのですが、可愛い。。。
凛としていて、格好良くて綺麗で、そしてすごく可愛い。
素敵ですねぇ。
あんな健さんだから、ラストシーンがぎゅっとくるんだなぁと思いました。
顔をくしゃくしゃにして武田鉄矢と桃井かおりに無言で別れを告げ、地面を踏みしめるように歩いて、そして、
(多分)何も言わず、ハンカチを見上げる姿、格好良かったなぁ。。。。
ラストは全員セリフ無し。
そこもいい。
武田鉄矢と桃井かおりのキスシーンはなくてもいいとは思ったのですが、許せる範囲だったのでよしとする。
この作品に出演するまでは、ヤクザ映画の人だった高倉健。
これ以降、現代劇にも登場することになるのですが、残念なことに、彼ほどの俳優をしっかりと使いこなすことのできる監督がいないのか、現代劇(というのかわからないが)で、良いと思ったことはあまりないように思う。
「あ、うん」ぐらいかなぁ・・・・・・・ちょっと軽い実業家の役で、似合ってた。
何にしても、自衛隊出身者とか、昔はヤクザだったとか、そういう設定が多いと思う。
なので、映画がワンパターンになりやすいのは否めない。
でも、昔の俳優さんは型にハマった役を演じる、のが常ではありました。
そんな、昔ながらの俳優だからこそ、燦然と輝いて見えるのかもしれません。
この作品、「あ、こういうことなんだな」という演出が綺麗にはまる作品です。
登場人物たちの心の軌跡が、ラストに向かうにつれピッタリとつじつまが合う。
つじつまの合い具合も、あたたー、それはないやろう・・・と感じさせるようなものがない。
色んな場所で、何度も観たことのあるラストシーンも、そうなると判っていてもぐっとくる。
映画の流れが、大団円を迎えるからですね。
教科書のような作品ともいえるかもです。
ですが、面白味がない、という意味ではありません。
演技者全てがすばらしい俳優陣です。
映画、という場所で生きてきた人たちだからでしょうか、スクリーンに登場しただけで、その場所にピタッとハマって、大きく主張するでもなく、ちゃんとそこにいるんです。(虎屋のおばちゃんとか)
山田監督のもとで仕事をしている人たちだ、と観客も知っているので、そんなカメオ出演に気付いたときにホッとする、温かい気持ちになるし、安心するんですね。
山田洋次監督作品だからできるのでしょう。
健さん以外、倍賞千恵子はもちろん、映画初出演だったという武田鉄矢、彼もおばかさんで軽薄な若者役でしたが、ドタバタも許せる範囲で上手だったし、だんだんと真面目になっていく過程がわかる。
桃井かおりも、登場した時とラストの表情がまるで違う。
彼らがどうしてそう変化していったのか?という心の軌跡がちゃんと描かれているからだと思います。
その演出にきっちりと応えている彼らも素晴らしい。
私、近頃映画を観るたびになーんか憤りを感じてたのですが、この作品を観て、まさに幸せな気分になりました。
昔、人々が映画を娯楽として楽しみにしていたように、単純だからこそ
素直に心に訴える作品っていいなぁと思いました。
単純なこと、それは物語もそうなのですが、「自分自身と向き合う」という大切な姿勢の事でもあります。
他の誰かと比較して寂しがったり、虚しい気持ちになったり、そんな人物像が最近多いと思います。
この作品に出てきた若者ふたりがそうですが、それじゃいけない、ということを健さん演じる勇作と知り合って気付いていくんです。
そんな姿が描かれています。
だから観ていて気持ちが良いのだと思います。
日向でも上映されますね!
山田監督や倍賞千恵子も来場するそうですよ。
私事ですが、チケット購入しましたー♪
10.01.12:06 キャタピラー ~映画~ |
今まで観た邦画で一番最低~だと思っていたのは「ひかる源氏物語 千年の恋」だが、キャタピラの前では、この作品はただの馬鹿で、頭が悪く罪がないところがとても可愛らしく思える。
このことだけは自信を持って言えるが、映画にしても人にしても、初めて会うときにはどんな噂を聞いていても会う前から、観る前から決めつけたりはしない。
ただ想像はする。
こんな話じゃないかな、こういう映像が出るんじゃないかな、と。
だから反戦、と聞いていても、そんな感覚は持っていなかった。
「キャタピラー」は、四肢を失っても尚、男性として妻を支配しようとする夫に対して、妻が恐れながら、馬鹿にしながら、自身を貶めながらも関係性をなんとかして作っていこうとする・・・・という話じゃないかな?と想像していた。
が、しかし、全然違っていた。
あくまでも若松監督自身のプロパガンダ映画。
彼自身が持っている第二次大戦やそれ以前の、日本に対する戦争認識のみで作った作品だと思う。
決して「反戦映画」ではない。
色んなところで、「反戦」という言葉が飛び交っているが、この作品のどこを見て反戦なんて言えるんだろう?
この作品に出てきた映像も物語も、これが戦争だ!と、まさに、演出で意図されたものでしかないのに。
この作品に描かれているのは、特定の何かから支配され、間違った方向へ進む集団の愚かしさ。
その象徴としての一組の夫婦がいる。
妻は戦争で四肢を失う以前の夫からは、産まず女!と馬鹿にされながら、身体も心も苦痛の中でセックスをしていた。
四肢を失った夫にも、以前よりもっと精神的苦痛を伴いながらセックス。
妻は、夫に尽くさねばならぬ、という考え方に支配されている。
夫が身体を壊す以前から気持ちは折れているのに、自分を何も考えない人形のような存在であろうとすることで、保ってきたのだろうか。
気持ちを支えてきたのは、例えば里山の四季を感じることであるとか、日々の作業で太陽の光を感じる気持ち良さであるとか、そういう普通の何気ない感覚だっただろう。
が、四肢を失った男を夫として受け入れるには、そんな普通の感覚だけでは足りず、ダルマのような夫に軍服を着せ、軍神と崇められている夫に尽くす勲功婦人として人々に称賛されなければならなかった。
ここまで打ってみたら面白いのである。
この作品。
だから、である。
戦争を絡めてしまったからこの作品は私の中で、ダメなのだ。
最初に日中戦争の映像(と、テロップが出たが)が出た時点でイヤだった。
途中の戦時中の映像もイヤだった。
玉音放送を最初から最後まで、全てを流さないのもイヤだった。
夫が中国?かアジアの国で行ったらしい、現地の女へのレイプの映像が、たびたび登場するのもイヤだった。
少尉と呼ばれていたが、陸軍士官学校を卒業していなさそうなのに、少尉になれるのだろうか?
そこは判らないが、そこまでの階級で、あんな馬鹿はないように思うのだが・・・・。
あとで贈られた称号かもしれないけれど、なんにせよ、ああいう馬鹿な行為にしても戦争中の非常事態であり、今でもどこかで日常的に行われている行為なのではないか。
そして極めつけは「死んだ女の子」の歌である。
これは、原爆で亡くなった子どもの気持ちを読んだ詩である。
何が何でも胸を打つ、ストレートな詩である。
戦いで亡くなっていく、小さな命に、心から手を合わせたいと思う詩である。
それを、若松監督のこの作品のエンドロールで流すのは許せない。
作品の内容とは、まるでかけ離れている。
戦争中の日本人って、こんなだったんだよー。
天皇陛下の写真なんか大事に飾って、こんなに誰もが虚しいのに、どうよ?
お国のため、お国のため、ってみーんな言ってたんだねー。
なんて、鼻で笑ってるような作品だ。
それも、これでもか!これでもか!と、まさに夫がアジアの女を凌辱したように映像で観客を凌辱しながら。
そのエンドロールに、平和でいてね、お願いね、と心からの願いを込めた詩が流れたのである。
もし、今、反戦と言うなら、あの頃の日本を言うよりむしろ中国じゃないか。
日本を題材にするのは、何も言わない相手だからじゃないだろうか。
若松監督が「あさま山荘への道」で描いていた、特定の何かから支配され、間違った方向へ進む集団の愚かしさ、その流れが今回も一貫していることはわかる。
だがしかし、不快な作品だった。
エンドロールで「死んだ女の子」を流さなければ、まだ許せたかもしれないが・・・・・・・・
このことだけは自信を持って言えるが、映画にしても人にしても、初めて会うときにはどんな噂を聞いていても会う前から、観る前から決めつけたりはしない。
ただ想像はする。
こんな話じゃないかな、こういう映像が出るんじゃないかな、と。
だから反戦、と聞いていても、そんな感覚は持っていなかった。
「キャタピラー」は、四肢を失っても尚、男性として妻を支配しようとする夫に対して、妻が恐れながら、馬鹿にしながら、自身を貶めながらも関係性をなんとかして作っていこうとする・・・・という話じゃないかな?と想像していた。
が、しかし、全然違っていた。
あくまでも若松監督自身のプロパガンダ映画。
彼自身が持っている第二次大戦やそれ以前の、日本に対する戦争認識のみで作った作品だと思う。
決して「反戦映画」ではない。
色んなところで、「反戦」という言葉が飛び交っているが、この作品のどこを見て反戦なんて言えるんだろう?
この作品に出てきた映像も物語も、これが戦争だ!と、まさに、演出で意図されたものでしかないのに。
この作品に描かれているのは、特定の何かから支配され、間違った方向へ進む集団の愚かしさ。
その象徴としての一組の夫婦がいる。
妻は戦争で四肢を失う以前の夫からは、産まず女!と馬鹿にされながら、身体も心も苦痛の中でセックスをしていた。
四肢を失った夫にも、以前よりもっと精神的苦痛を伴いながらセックス。
妻は、夫に尽くさねばならぬ、という考え方に支配されている。
夫が身体を壊す以前から気持ちは折れているのに、自分を何も考えない人形のような存在であろうとすることで、保ってきたのだろうか。
気持ちを支えてきたのは、例えば里山の四季を感じることであるとか、日々の作業で太陽の光を感じる気持ち良さであるとか、そういう普通の何気ない感覚だっただろう。
が、四肢を失った男を夫として受け入れるには、そんな普通の感覚だけでは足りず、ダルマのような夫に軍服を着せ、軍神と崇められている夫に尽くす勲功婦人として人々に称賛されなければならなかった。
ここまで打ってみたら面白いのである。
この作品。
だから、である。
戦争を絡めてしまったからこの作品は私の中で、ダメなのだ。
最初に日中戦争の映像(と、テロップが出たが)が出た時点でイヤだった。
途中の戦時中の映像もイヤだった。
玉音放送を最初から最後まで、全てを流さないのもイヤだった。
夫が中国?かアジアの国で行ったらしい、現地の女へのレイプの映像が、たびたび登場するのもイヤだった。
少尉と呼ばれていたが、陸軍士官学校を卒業していなさそうなのに、少尉になれるのだろうか?
そこは判らないが、そこまでの階級で、あんな馬鹿はないように思うのだが・・・・。
あとで贈られた称号かもしれないけれど、なんにせよ、ああいう馬鹿な行為にしても戦争中の非常事態であり、今でもどこかで日常的に行われている行為なのではないか。
そして極めつけは「死んだ女の子」の歌である。
これは、原爆で亡くなった子どもの気持ちを読んだ詩である。
何が何でも胸を打つ、ストレートな詩である。
戦いで亡くなっていく、小さな命に、心から手を合わせたいと思う詩である。
それを、若松監督のこの作品のエンドロールで流すのは許せない。
作品の内容とは、まるでかけ離れている。
戦争中の日本人って、こんなだったんだよー。
天皇陛下の写真なんか大事に飾って、こんなに誰もが虚しいのに、どうよ?
お国のため、お国のため、ってみーんな言ってたんだねー。
なんて、鼻で笑ってるような作品だ。
それも、これでもか!これでもか!と、まさに夫がアジアの女を凌辱したように映像で観客を凌辱しながら。
そのエンドロールに、平和でいてね、お願いね、と心からの願いを込めた詩が流れたのである。
もし、今、反戦と言うなら、あの頃の日本を言うよりむしろ中国じゃないか。
日本を題材にするのは、何も言わない相手だからじゃないだろうか。
若松監督が「あさま山荘への道」で描いていた、特定の何かから支配され、間違った方向へ進む集団の愚かしさ、その流れが今回も一貫していることはわかる。
だがしかし、不快な作品だった。
エンドロールで「死んだ女の子」を流さなければ、まだ許せたかもしれないが・・・・・・・・
09.12.20:49 悪人 ~映画~ |
~バッチリ ネタばれしてます~
この作品は、言ってしまえば竹内まりやの歌のような映画である。
実際ならば、「ハイハイハイ…勝手にしときなさい」としか思えない人たちの話を、さもものすごい大恋愛をして、ものすごい心の軌跡があったかのように観せている。
たしかに心の軌跡はある。
同情すべき生い立ちや、生活環境も。
が、しかし・・・・・私は裁判員ではないので、情状酌量の余地あり、などとは思わないし、どこか騙された感あり。
土木作業員の祐一(妻夫木聡)は、祖父母と暮らしている。
母親は祐一を置いて出て行き、家には帰ってこない。
彼は祖母に育てられ、病気の祖父の面倒を祖母と一緒にみている。
どうやら女性との付き合いには慣れてはいないらしく、出会い系サイトで知り合った佳乃(満島ひかり)とセックスだけの関係(それもお金を払って)で付き合っていると思っている。
佳乃はそんな祐一をダサいとバカにしているが、自分自身を客観的に見ることができず、まともな人間関係を作れない彼女もダサい女だ。
老舗旅館の息子で見栄えが良いだけで、頭のからっぽな大学生・増尾にバカにされ遊ばれていることに気付かず、バカにされたまま捨てられる。
増尾の車から蹴り出され、傷ついていた佳乃に声をかけた祐一だが、みっともない姿を見られた佳乃は逆上し、祐一をののしる。
ののしられた祐一は、それまでの鬱憤が爆発し、佳乃を殺してしまう。
バカがバカをバカにしたために殺される・・・・・という、もう、どうでもいいや、と言いたい話。
そこにもうひとり、男に飢えている光代(深津絵里)が登場する。
多分、祐一よりも随分年上の彼女は、紳士服店で働き、妹と暮らしている。
妹には付き合っている男性がいて、光代が雨に濡れてアパートへ帰っても、チェーンがかけられ直ぐには部屋へ入れないこともある。
妹が彼氏と出掛けたあとのベッドの乱れを、虚しく見つめてしまう。
職場では、ズボンの補正を行うときに、男性の足に身体をすりつけんばかり。
その彼女が、出会い系サイトでメールを送ったのが祐一だった。
本気で誰かに出会いたかったから。
その気持ちはとてもよくわかる。
が、である。
光代は祐一との最初のデートで車に乗ってすぐに「ホテルに行こう」と誘われ、行く。
いきなり下着だけ脱がされ、それも後ろから挿入。
普通ならばこの時点で(というか、すぐホテルに誘われた時点で)自分がどういう扱いなのかが理解できるものだ。
しかしとにかく男が欲しい光代は、それでも「お付き合い」したいと願っている。
セックスだけで光代を帰した祐一と、情けない自分自身に涙するのである。
そして、佳乃に求められたように光代にもお金を渡した祐一が、光代に謝りに来たとき、あっさりと受け入れている。
そのまま祐一に連れられ、逃亡。
逃亡中、祐一は殺人を犯したこと、自分がどんな暮らしであるか、そして母に捨てられた生い立ちを語る。
今まで変わり映えのしない人生を生きていた光代にすれば、渡りに舟である。
いきなりのドラマティックな展開が始まったのだから。
このふたり、「これが愛なの?と~、たずねるのはやめてよ~♪」と、浜田省吾なら歌いたいところだ。
気の毒なのは、娘を殺されて、その娘が大馬鹿ものだったことを、いきなり突き付けられる両親(柄本明・宮崎美子)だ。
ハイハイ商法に騙され、大金を払う羽目になったうえ、孫は殺人を犯し、自分自身の愚かさを齢を取って知ることになってしまった老婆(樹木希林)だ。
逮捕されるとき、光代を殺そうとした(永遠に自分のものにしたかったから、またはあんぽんたんなりの最後の優しさ、、であってほしいが)祐一が、引き離され、光代に手をのばす・・・・・というとても愚かな演出は、竹内まりやの勘違いソングに通じる。
逃亡中、灯台でふたりの世界に浸って朝日をみつめるラストも、これらは演出する側が、いかに観客を泣かせるか?考えすぎたとしか思えない。
モントリオール映画祭で深津絵里が主演女優賞をとってしまった・・・・
上辺だけで何も考えていないマスコミが、こぞってこの作品を褒めるに違いないが、この作品は映画ファンの間では「黒木瞳が好き」と聞けば、その人の程度がわかる、みたいな扱いになるかもしれない。
シネマ1987のフォーラムでも、さすがにここまでハッキリとは出せなかったので、私の場所で好き勝手に言わせてもらう。
「悪人」には騙されないぞ!
この作品は、言ってしまえば竹内まりやの歌のような映画である。
実際ならば、「ハイハイハイ…勝手にしときなさい」としか思えない人たちの話を、さもものすごい大恋愛をして、ものすごい心の軌跡があったかのように観せている。
たしかに心の軌跡はある。
同情すべき生い立ちや、生活環境も。
が、しかし・・・・・私は裁判員ではないので、情状酌量の余地あり、などとは思わないし、どこか騙された感あり。
土木作業員の祐一(妻夫木聡)は、祖父母と暮らしている。
母親は祐一を置いて出て行き、家には帰ってこない。
彼は祖母に育てられ、病気の祖父の面倒を祖母と一緒にみている。
どうやら女性との付き合いには慣れてはいないらしく、出会い系サイトで知り合った佳乃(満島ひかり)とセックスだけの関係(それもお金を払って)で付き合っていると思っている。
佳乃はそんな祐一をダサいとバカにしているが、自分自身を客観的に見ることができず、まともな人間関係を作れない彼女もダサい女だ。
老舗旅館の息子で見栄えが良いだけで、頭のからっぽな大学生・増尾にバカにされ遊ばれていることに気付かず、バカにされたまま捨てられる。
増尾の車から蹴り出され、傷ついていた佳乃に声をかけた祐一だが、みっともない姿を見られた佳乃は逆上し、祐一をののしる。
ののしられた祐一は、それまでの鬱憤が爆発し、佳乃を殺してしまう。
バカがバカをバカにしたために殺される・・・・・という、もう、どうでもいいや、と言いたい話。
そこにもうひとり、男に飢えている光代(深津絵里)が登場する。
多分、祐一よりも随分年上の彼女は、紳士服店で働き、妹と暮らしている。
妹には付き合っている男性がいて、光代が雨に濡れてアパートへ帰っても、チェーンがかけられ直ぐには部屋へ入れないこともある。
妹が彼氏と出掛けたあとのベッドの乱れを、虚しく見つめてしまう。
職場では、ズボンの補正を行うときに、男性の足に身体をすりつけんばかり。
その彼女が、出会い系サイトでメールを送ったのが祐一だった。
本気で誰かに出会いたかったから。
その気持ちはとてもよくわかる。
が、である。
光代は祐一との最初のデートで車に乗ってすぐに「ホテルに行こう」と誘われ、行く。
いきなり下着だけ脱がされ、それも後ろから挿入。
普通ならばこの時点で(というか、すぐホテルに誘われた時点で)自分がどういう扱いなのかが理解できるものだ。
しかしとにかく男が欲しい光代は、それでも「お付き合い」したいと願っている。
セックスだけで光代を帰した祐一と、情けない自分自身に涙するのである。
そして、佳乃に求められたように光代にもお金を渡した祐一が、光代に謝りに来たとき、あっさりと受け入れている。
そのまま祐一に連れられ、逃亡。
逃亡中、祐一は殺人を犯したこと、自分がどんな暮らしであるか、そして母に捨てられた生い立ちを語る。
今まで変わり映えのしない人生を生きていた光代にすれば、渡りに舟である。
いきなりのドラマティックな展開が始まったのだから。
このふたり、「これが愛なの?と~、たずねるのはやめてよ~♪」と、浜田省吾なら歌いたいところだ。
気の毒なのは、娘を殺されて、その娘が大馬鹿ものだったことを、いきなり突き付けられる両親(柄本明・宮崎美子)だ。
ハイハイ商法に騙され、大金を払う羽目になったうえ、孫は殺人を犯し、自分自身の愚かさを齢を取って知ることになってしまった老婆(樹木希林)だ。
逮捕されるとき、光代を殺そうとした(永遠に自分のものにしたかったから、またはあんぽんたんなりの最後の優しさ、、であってほしいが)祐一が、引き離され、光代に手をのばす・・・・・というとても愚かな演出は、竹内まりやの勘違いソングに通じる。
逃亡中、灯台でふたりの世界に浸って朝日をみつめるラストも、これらは演出する側が、いかに観客を泣かせるか?考えすぎたとしか思えない。
モントリオール映画祭で深津絵里が主演女優賞をとってしまった・・・・
上辺だけで何も考えていないマスコミが、こぞってこの作品を褒めるに違いないが、この作品は映画ファンの間では「黒木瞳が好き」と聞けば、その人の程度がわかる、みたいな扱いになるかもしれない。
シネマ1987のフォーラムでも、さすがにここまでハッキリとは出せなかったので、私の場所で好き勝手に言わせてもらう。
「悪人」には騙されないぞ!