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  • 04/26/04:09

10.06.14:52

YearBook



大好きだった人の誕生日。
10月になったので毎年のようにYear Book とカレンダーを買った。
春までは美術館のすみにあったミュージアムショップで選ぶのを楽しみにしていたのに、
あの年上の美しい人はあそこにはもういない。


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06.19.20:47

電話ボックス

 堤防沿いの道を北に走る。鶴ノ島、和知川原・・・M商業高校の体育館が見えてくる。あの角を右に曲がる。高校の裏門からは古い校舎が見える。私が高校2年生。あの校舎の2階の教室で学んだ。崩れそうなほど古い鉄筋の校舎。そういえば、あのT字路の角には電話ボックスがあった。授業中に抜け出して、あそこから電話をかけたことがある。友人が駅で自転車を盗んで乗っていた。盗難届が出されていたそれが、たまたま私立の男子校に通う別の同級生の自転車だった。友人のために、「あれは貸したやつだ」と警察に話してほしいと、彼にお願いするためだった。

 もう、ないかも、あの電話ボックス。。。 あった。 
 
 友人とふたりでクラスの子たちから小銭を集めて電話をかける高校生の私が見えるようだ。先生に見つからないように、誰からも告げ口されませんように、彼女のことを助けることができますようにと緊張しながら、でもどこかわくわくしながら。あの電話ボックスは、電話機の形はあの頃よりも新しくなっていたが、変わらずにあの場所にあった。ただそれだけで、私はとても清々しい気持ちになった。
 
 清々しい気持ちのまま、私は卒業したあとに一度だけ、友人とあの古い校舎の隣にある通称・中校舎と呼ばれる2階建ての小さな校舎(教室が4つだけの)に忍び込んだことを思い出した。
夜、ドライブの途中に裏門が開いているのを見た私たちは、1年生のときの教室に入ってみようと思い立った。裏門が開いているのだから、きっとどの窓かが施錠されずに開いているに違いないと確信していた。「M商だもの、絶対にきちんとしてるはずないよ」。
 
 案の定、1階の窓が開いていた。それは私たちが1年生の時に過ごしたクラス。女の子ばかりの1-7。電気などつけなくても、私たちには部屋の中が見えた。こげ茶の板張りの床、黒板、壁のキズ。床ワックスの匂い、机につっぷした頬の冷たさ、壁に触れた指の感触。窓から見える景色、差しこむ光、クラスメイトたちの顔、声。夜の暗い教室で私たちは二人きりだけど二人だけじゃなかった。15歳や16歳の少女たちが変わらずにそこにいた。「ここに住みたい」「このまま帰る?」「ううん、何か書いて帰る」「なんて?」「あなたが好きです、って」「あーあ・・・もう」

 
 次の日、私は職場の朝の3分間スピーチで、昨夜の話しをした。友だちと母校へ行き、1年間過ごした教室に行ってみたこと。電気をつけなくても中の様子が手に取るようにわかり、大好きだった場所が何も変わっていないということが、自分でも驚いてしまうほど嬉しかったこと。そしてちょっぴりいたづらして帰ったこと。きっと今ごろ、あの机の子が突然の誰かの告白にドキドキしているかもしれないこと、そのことを思うと申し訳ない気持ちになるけれど、でも「あなた(ここ)が好きです」という私の気持ちはウソではないこと。また行きたいし、今朝は清々しい気持ちでここに立っていること。
 
 私が話し終えたあとに社長が感想を言った。「夕べとても楽しかったのはよくわかるが、お前がやったことは公共物不法侵入だぞ。もうするな」。
 
 変わらずあの場所にあった電話ボックスが私にくれた時間旅行は、そこでおしまい。

06.01.13:08

私はどうなりたいの?

その道のプロに何度かお会いする機会があって、雑談ぽくいつも尋ねることがある。
「最終的にあなたはどうなりたいですか?」
それはすごくイジワルな質問だということは判っている。
たいていそう尋ねられたときにはその人の雰囲気が素になるのが判る。
どんなに頑張ってる人でも、私と同じ人間なんだと感じる一瞬だ。

私だって尋ねられたら判らない。
それに、そう、仕事だとかお金だとか名誉だとか、私が死ぬ時にそんなものが必要ないことは判っている。
すると、今どんなに夢を描いて目標たてて頑張っていることがあったとしても、しょせんそれはまぼろしなんじゃないかという気になる。
そう、だから何があっても大丈夫!
ほんとは失うものなんて無いのかもしれない。
とにかく今やらなきゃなことを、がんばろーっと。。。


05.14.23:40

本気の必死

4月の終わり、超多忙の極みが急~に入った椎葉泊まり取材。
宮崎で神楽といえば高千穂しか思いつかない知識の浅さでのぞんだ椎葉神楽。
椎葉という場所の奥深さを知る旅になった。

__.JPG一昨年から椎葉に何度か行く機会があり、初めて一人で行ったときのように自分で運転しながら車酔いすることはなくなったけれど、行くたびに不思議な感覚になる場所だ。
私がよく行く不土野という地域は熊本寄りなので、西米良から熊本に行き、そこから市房山を越えるルートが近道。
不土野から椎葉の町中である上椎葉までは車で30分ぐらい。
椎葉ダムのダム湖沿いの道を走る。
どこも山に沿うように家が建っている。
里山の風景とはまるで違う。
車で離合できない道が続く。
ところどころに山からの水が流れていて、飲むことができる。

今回は上椎葉から北、南郷村のほうに少し行った場所で村椎地区というところ。
二軒お話しを伺ったが、同じ地区といっても両方ともえらいな山道を行く。
椎葉の神楽は高千穂の神楽とは違い、独自の伝わり方をしているようだ。
椎葉の中でも26に分かれていて、それぞれがそれぞれの形で神楽を継承している。
フジワラカズマ太夫、伊勢の国、赤紫の衣装、荒神、柴引き、宿神、猿田彦・・・
知らない名前や知らないことばかり、それに何より困ったのは、それら神さまの意味や舞うことの意味を、当の本人たちが知らないこと。
80歳は超えている人たちだが、彼らが生まれたときから神楽がその場所にあり、それらと暮らすことが当たり前だったから。
その椎地神楽は後継者が少なく、あと10年もたたないうちに失われてしまうかもしれない。
そこで・・・ヴィスコンティの「山猫」の中のセリフで、民主党の党首選挙の際に小沢一郎が語ったという「変わらずにいるためには自らが変わらなければならない」という言葉を思い出した。

椎葉の26の地区に伝わる神楽は、きっとそれぞれが素晴らしいものなのだと思う。
室町の昔から伝わったものらしいから、残っていけるなら良いが、地区同士の考え方の違いがあり、交わることは難しいようだ。
若い人たちが熱心な地域のものは残るが、そうでないところは衰退していく。
衰退していく地域の人たちも、それを良しとしているのではないが、だからどうするということをしない。
その気持ちに私はとても疲れてしまった。

「残したいなら変わろうとしなよ」とは言えない。
そこにずっと伝わる面があり、それを守ってきた家があり、地域のならわしがある。
それらをただひたすら守って、日常として暮らしてきた人たちがいる。
それはまさに川の流れのように、当たり前に。
ならばそれが喪失に向かって進んでいたとしても、それを理解している彼らがそうしているならば、それで良いのだろう。
簡単にそれを「なぜ?」とは問えない雰囲気が椎葉にはある。

3929902a.jpeg十根川地区にある一本杉と、大ヒノキを見た。
一本杉は十根川神社の境内にある。
その周りに民家が何軒か建っていたが、これも山に沿うように建っている横長の建物で、日本の原風景と呼ばれているそうだ。
そこから車で山のほうに走る。
車を停めて少し歩くと十根川地区を見下ろせる場所がある。
すり鉢のように山と山に囲まれた集落、本当に八つ墓村のようだ。
美しい黄緑色のワサビ田のような場所に立つ大ヒノキが見えてきた。

綺麗ですね、ワサビ田があるんですか?
「ん?あれは墓だよ」
今はもう墓地としては使われてないそうだが、以前は墓地だったところ。
昔のことだから土葬である。
そこに立つ大ヒノキ。
89510b2d.jpeg台風で折れた部分もあるが、枝を大きく広げている姿には怖さを感じた。
近づいて幹に少し触れた。
そこには、流行りの森林セラピーとか癒しとかの言葉は少しも感じない。
むしろひどく居心地が悪い。
あれが畏れという感覚なのかもしれない。

本気の必死さ。
あの大ヒノキと、その周りの雰囲気は、自然がそこに生きることに必死になっている姿だったと思う。
野蛮。
シンプルにそれだけ。

少し深く知った椎葉は重かった。
あまりに重くて、その日宮崎に帰ってきた私はひどい頭痛と吐き気で救急病院で点滴を受ける羽目になった。
すごく疲れた。
7faa39e3.jpeg椎葉は軽く行くところではない。
つくづくそう感じた2日間だった。










 

12.30.22:47

愚か者の考え

今年もあと1日。
今年はすーごく色んなところに行ったので、私の車の年間走行距離が随分のびた。
ティーダちゃん、今年も頑張りました。
ありがとう。

今年の出来事といえば、年明け1月に宮崎では新燃岳が噴火。
あの時は、いったいこれからこの場所がどうなってしまうんだろう?と、とても不安だった。
小林市内の小林青果市場にある小さな食品会社の記事を書いたばかりだったので、彼らの毎日の無事を祈った。
青果市場の中で市場食堂という食堂をやっている。
穏やかでとても素敵なご家族だ。
ずっと彼らがあのまま穏やかに幸せに暮らしていってくれたらと思う。
そのために私もずっと応援しようと思うので、小林に行ったら市場食堂!芋もちならきりしま食品!鍋なら丹治鍋だし!これで決まり!

3月の東北大震災。
あれ以降、マスコミが流す情報には必ずどこかの意志が加わり、操作されているものなのだということに気付いた。
世の中には、物事を広く、遠く見ることができない人たちがとても多いことも。
「痛みの共有」という言葉がよく使われたし、今でも使う人がいる。
愛してもいない、会ったこともない他人の心の痛みを、共有などできるはずがない。

東北大震災は、同時に原発事故を引き起こしたことで、阪神淡路大震災とは性格が異なる。
阪神淡路のように、お金や人手の支援で人や街を復興させるということではない。
住んでいる人たちを放射能のリスクの少ない場所に避難させ、生活の基盤を作り、そのうえで放射能汚染された土地をいつか人が住めるようにするという3つの仕事がある。
だからまずは集めるお金は街の復興よりも、被災した人々が築く新しい生活のために使うべきだと思う。
震災ガレキを含む放射能汚染されたもの全て、福島原発の場所ひとつに集める。
そして完全に隔離する。
日本中にばらまかない。
馬鹿みたいな共有をしない。

「私が受けた苦しみを、あなたたちも受けなさい」
東北の人たちが、そんなことを望んでいるとは思えない。
くだらない政府や上辺だけの行政、あの出来事をしっかりと把握していない人たちが「痛みの共有」など平気で言う。
現状を正しく説明し、その上でどうするかを考え、道筋をたてる、どうやらそんなことを多くの人たちは望んでないのかもしれない。
私が同じ目にあったら娘のためにも他所で暮らす。
そのための資金がほしい。
集まった義援金をいただきたい。
そう願う。
そう願っている人たちもいるのではないかと思うが、そんな声は聞こえてこない。
マスコミは、くだらない政府や上辺だけの行政、あの出来事をしっかりと把握していなくて、または何らかのお金の流れに乗っている人たちの味方だからだ。

私はひどい愚か者だが、愚か者なりにちゃんと考えたいと思う。
今年は大変なこともあったけれど、それはとても良い教訓になった。