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  • 05/20/06:15

04.08.12:26

ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

なんだか韓国映画のようなタイトルである。
いつも不思議に思っていたのだが、どうして韓国映画はあんなにタイトルが長いのだろう?
「猟奇的な彼女」「親切なクムジャさん」あたりからどこか違和感を感じていたが、
「私の頭の中の消しゴム」では、私のようにタイトルにどこか引っ掛かる感を持っている人へのアピールかと思った。
なぜなら気になって仕方ないから、その作品を観に行くかもしれない。
新しい宣伝方法だな、やるなと思った。
そこでこの作品だが、歳をとってもの覚えが悪くなった私は一度聞いただけでは覚えない。
とりあえず、「ありえん近い」だけで覚えている。

誰かがこのタイトルはアスペルガーの人の感覚らしいと言っていた。
そうなの?と感じたのは、私にもその気があるからだと思う。

親しくしている人たちに発達障害がある人たちが多いからか、またはその人たちがとても魅力的で頭がよく、大好きなので発達障害ってたまに迷惑だけどむしろスゴイ!と思っている私は、発達障害は本などで勉強してわかるものではないと断言したい。
これも世の中ではよく、

「ゲイの人って~だよね」
「レズビアンの人って~だよね」

などと言う人がいるが、じゃあ

「男が好きな女って~だよね」
「女が好きな男って~だよね」

という話が成立するだろうか?
成立しないことは誰もが承知している事実である。

性格は100人いれば100人違うし、考え方も100通り。
だから私たちは「世界にひとつだけの花」なのである。ww
なので、同じように発達障害もそれを持っている人ごとに違う。
人の分類分けで、
「異性愛者」「同性愛者」「両性愛者」と大まかに分けられるように、
「発達障害」がある。
そう理解してもらいたいと思っているし、そうなんです。

で、この作品だが、あくまでも9・11は主人公オスカーにとっては新しい扉を開けるきっかけだなと思った。
彼に大きな影響を与えたのは「父親の死」。
9・11ではありません。
ただし、彼以外のNYの人たちには9・11が影響している人もいるのだろうけれど、そうでない人たちもいたのではないかと思う。
たまたまオスカーの父が死んだのが9・11のテロが原因であった、ということにすぎません。
だからもしかするとハドソン川に浮かぶ小舟が転覆して、それにたまたま乗っていた父親が死んだ、という話しにもなりえたのではないかということ。

あくまでもこの作品で私が感じたのは、アスペルガーの症状がある子どもが、何かのきっかけで今まではできなかったことを出来るようにがんばってみる(一番彼が頑張っていたのは、大好きな庇護者が急にいなくなったことを理解し、そのストレスを解消する、我慢すること)、そのために夫を失った妻が母親として初めて息子に向き合ってみる、という内容だった。
人づきあいがとても苦手で、そこに並々ならぬパワーを必要とする彼ら(アスペ)が、知らない人の家を訪ねることがどんなに大変なことか。
一度理解したことを覆されることが、どんなにしんどいか。
一度組み立てた考えを、もう一度組み立て直すことに、どれだけの力が必要か。
そのストレスが溜まりに溜まって大爆発するシーンが、オスカーがお祖父さんに今までの経緯や気持ちを一気にしゃべる、、、というシーン。

(オスカーが抱えた悲しみは、爆発しない。
誰だってそうだと思うが、悲しみは爆発しない。
身体や心に染みていつか溢れる。
爆発するのは抱えてしまった癒されないストレスです。)

オスカーが何か新しいことを始めたと気付いた母親が、彼に知られないようにいろんなお膳立てをする。
そこはあまりにも甘いように感じたが、つまりそこにNYの人たちが協力することこそが9・11がNYの住人に与えた影響なんだと思う。
9・11なくしては、そのシチュエーションはありえなかったのではないか?

かくしてオスカーは少し理解する。
初対面の人たちにも自分は会いにいけること、
下が見える橋だってなんとか通れること、
ブランコをこぐと面白いこと、
お父さんはビルから落ちていなくなったこと、
そしてお母さんも自分を愛していること。

傑作!、泣けたー!でもなかったけれど、最近ほんとに発達障害をテーマにした作品を、そのものズバリの診断名出してたくさん作られるようになったんだなぁとつくづく感じる。
それで「自分はまとも」だと思っている人たちがどれだけ理解しているのかは、はなはだ疑問だけれど。

発達障害がある人との付き合いはとてもしんどいし、たまにどうしてよいかわからなくなることもあるけれど、それでもその人が自分にとって大切な人ならばどんなにしんどくても理解しようとするし、こちらの事も理解してもらいたいと頑張る。(だいたい、「まとも」とはどんな人のことを言うのかも疑問だし、自分をまともだと言う人ほど馬鹿が多い)
それはどんな誰との付き合いでも同じです。
目の前にいる大切に思う「その人」を見て、考える。
あたりまえの事です。
loud.jpg











 
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02.17.17:23

Salyu Lighthouse

01.28.17:37

恋の罪 ~映画~

koitsumipo.jpg今日、宮崎でも公開されたので、やっと言える。

ひと言で言うと、「男の妄想映画」。
男の、というより”園監督の”妄想映画。
園監督作品なんだから当たり前と言われればそれまでだけど、この作品の売り方として使われている「女性を描いた」という言葉に対してそう言わせてもらう。

刑事・水野美紀。
夫と子どものいる彼女は、夫の友人と愛人関係にある。
ある日愛人とのセックスの最中に呼び出され、円山町の猟奇殺人現場へと向かう。

売れっ子作家を夫に持つ女・神楽坂恵。
潔癖症で独断的な夫のため、作られた人形のように暮らしている。
ただし、本人はそうである自分にあまり疑問を感じていない。
たぶん、セックスレス。
自覚できていなかった淋しさを、たまたまやることになってしまったAV撮影で満たしてしまい、自覚できないまま「生きる」彩りに染まっていく。

大学の助教授・富樫真。
父親に対して肉親をこえた愛を抱えており、父の死を乗り越えられず、空虚さを夜の円山町に立ち、セックスで満たそうとしている。

ラブホテル街にある古い家が助教授の夜の仕事場。
そして猟奇殺人事件の現場。
切断され、マネキンと接合された女性の遺体の身元を追ううちに、刑事は女と助教授へとたどり着く。
刑事にとってセックスに支配されたふたりの女性は、真実が見えてくるほどに興味深く、また、隠している自分の姿でもあった。

東電OL殺人事件がモデルになっているそうだが、そんなことはどうでもよい。
あれだけ社会の興味を引いた事件なのだから、いくらでも物語になったし、今まで映画になっていなかったのが不思議なほどだから。
なのでこの際、あの事件のことはこの作品を語るに何の意味もない。
が、しかし、助教授の裸はガリガリにやせている。
(東電OLは拒食症だった)
だからといって、なぜ彼女がそんなに痩せているのか?という話しは作品中にはない。
園監督がよくやる、中途半端なリアリズム・・・投げっぱなしの興味の対象。
東電OL殺人事件についてネットなどで調べたことがある人ならば、彼女が拒食症でガリガリにやせた身体をしていたことは知っている。
だから富樫真の裸を観たときに確実にリンクするし、その身体が意味することをあれこれと想像するはず。
でも映画では、そこまで。
だったら、そういう演出する必要あるのかな。

で、富樫真はこの作品では残念ながら、脱ぎ損、やられ損の印象。
作品中一番ぶっ飛ばしている存在なのに、園監督が作ったオチがあんまりなため。
いくらなんでもそれはない。。。
ぶっ飛ばしている人が、あそこまで綿密に計画できる理由を述べよ!
そう言いたい。
だいたい、あの場末なラブホテルの1室で、オチがわかったあとの狂乱・狂態を見せられるこちらの気持ちになってほしい。
一気に気持ちが引いたあとに、あの大騒ぎ。
冗談じゃない。
ハリウッドならば絶対にラジー賞。
「ショーガール」のエリザベス・バークレーなんて目じゃない。

それに水野美紀。
いくらなんでもあんなM女ばかりじゃないでしょう。
この世の中。
女はレイプされるのが好きだから、と、どっかの中学生が女の子を襲っていたそうだが、それと同じレベル。
あれで性の渇きを表現するならとんでもない話し。
あの刑事はただの変態です。
それにエンドロールのバカ馬鹿しさ。
なぜあんなダメ押しをしたのか解らない。。。園監督の品の無さを感じる。
ひとつだけ、街で自殺した女の携帯を壊すのには共感。

神楽坂恵は魅力的。
なぜか?
彼女のキャラには、背景がないから。
彼女はただ流れるままに見知らぬ男に抱かれ、助教授に出会い、感銘を受け、少し早い水の流れに恐れを抱くけれどそのまま流され、たゆたいながら、澱みながら流れていく。
流行作家の妻時代の薄化粧から、港町の娼婦の濃い化粧に変わっていく。
お金さえ出せばあの胸に顔をうずめることも、もみしだくことも出来ると思えば、疲れた心を抱える者にとって濃い化粧の彼女の笑顔は癒しになる不思議。
商品だから買える。

彼女が求めているのはいつだって、自分を導いてくれる存在。
最初は夫、次に助教授。
夫には落胆したから、彼女の胸にあるのは、もう手の届かない存在になった助教授だけ。
ならば彼女はずっと商品のまま。
いくらお金を出されて抱かれたとしても、彼女が欲しいものは手に入らない。
一生、そのまま。
小さな漁師町の路地裏で、男に殴られ、蹴られながら、思い浮かべるのは講義をする助教授の姿。
バックに流れるマーラーのアダージェッド。
↑この演出(耳触りの良いクラシックを流す)も、いつもの他人のふんどしで相撲をとるという園監督の品のなさなんだけど。。。

3分の2の主要キャラがダメ。

それに、ぶっ飛んでる人に理由づけるところがどーしようもない。
いつもの過激な暴力シーンや口論、セックスシーン、何かの詩の引用、クラシック音楽は、本筋からの逃げのような気がしてならない。
園監督の作品に共通するのは、Aという議論をしているところに、何とかその議論に勝とうとしてBという事柄を持ちだして語り、Aについて煙に巻くやり方。
そういうやり方有識者ぶってる人に多いけど、そんな感じがする。
どんなに暴力的なシーンを撮ろうとも、過激なテーマを用いようとも、彼の思考そのものが本来とてもノーマルなんじゃないかと思う。
だから原作から作るという「ヒミズ」に期待したんだった。

園監督が選ぶテーマはいつも、こちら側に興味を持たせるものばかりなのに、アプローチの仕方がすごく中途半端。
面白い展開をするし、あれだけの演技を俳優たちにさせるんだから、もう少し深く物語を作らないかなぁ。
今回も、なーんか騙された感満載の作品だった。

01.23.22:51

ヒミズ ~映画~

なんとなく、1987の仲間うちでは四面楚歌のような雰囲気になっていますが、それでもダメなものはダメ。
私がこの作品をダメな理由は、東日本大震災を物語に組み込んだこと。
どうしても許せない部分が2つある。

ひとつは、冒頭のシーン。
被災地に置かれた洗濯機。
セットではない場所に置かれた小道具の洗濯機をみたとき、ぞっとした。
これはもう理由がどうとかいうことではない。
セットじゃない場所にああして小道具を置いて撮影している感覚にぞっとした。

もうひとつは震災に遭ってホームレスになっている男が、頑張ってる中学生を応援したいからと、「悪いやつ」が「悪いこと」して貯めたお金を強盗殺人して奪って、そしてそれをさも良い事のようにヤクザに渡すこと。
そのヤクザもいい歳した大人が他人の子どもに一生懸命になっていることに、なんだかちょっぴり感銘を受けた風になっていること。
ばかばかしい。

あの震災や津波で家族や自分の会社、生活の全てを失った男が、未来を託したいからと若者を応援するのは構わない。
でも、応援するなら自分でちゃんと稼ごう。
人殺しをして、どろぼうしたお金で良い事したつもりになるんじゃない。
震災で死んだそいつの家族が、そんなことして喜ぶとでも思ってるんなら大馬鹿者だ。
情けない。
というか、そういう展開を作る園監督、大甘。
「震災で家族を失った」展開にするんじゃない。
原作は知らないが、勝手に家族を捨てて出て行ったとか、家族から捨てられたとか、そういう男ならば1億万歩ゆずって許す。
死んだ家族に顔向けできないような事をして、えらそうな事を言うんじゃない。

震災を絡めた展開、その二つが私は大嫌い。

主演の二人はとても良い演技をしていたと思う。
でも園監督の作品は、いつもテンションがあんな感じだから、あの二人だけが良いとは言えない。
どの作品でも出演者は生っぽいというか、生き生きしている。
そこはまあ置いといて、
主演の二人は良かったと思う。
それに、(震災以外)物語もとても興味深かった。
どうなっていくんだろう?といつもながらドキドキした。

だから、震災を絡めない「ヒミズ」を観たかった。

01.01.22:01

Ashes to ashes


アーティストが作るものに対して、敬意を払うことができない日本のテレビ局、ホントになさけない。
ガガたんを出せばいいってもんじゃない。
NHKの訳詞は昔からダメダメではあるんだけど、訳詞と同じくらいパフォーマンスにしても受ける器がないんだから、何も、どうーしても出演してもらわなくていいのに。

訳詞のバカといえば、デヴィッド・ボウイの90年東京ドームライブの番組では、「Space Oddity」が本気で宇宙飛行士の歌になってた・・・・。


あけまして、おめでとうございます。
今年は自分自身の足元をよく見て、堅実に地道に、そして私らしく(これがやばい)生活することを心がけたいです。
色々なことを、穏やかに受け入れる。
そしてしっかり前を見て歩く。
大きい人に、私はなりたい。
という毎年の目標を今年も掲げるのである。
死ぬことは決まっているから、それまでは正しく生きたいなあ。
まじで。

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