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広くて浅い頭で素直に頑張ります。
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  • 05/08/16:45

06.01.13:08

私はどうなりたいの?

その道のプロに何度かお会いする機会があって、雑談ぽくいつも尋ねることがある。
「最終的にあなたはどうなりたいですか?」
それはすごくイジワルな質問だということは判っている。
たいていそう尋ねられたときにはその人の雰囲気が素になるのが判る。
どんなに頑張ってる人でも、私と同じ人間なんだと感じる一瞬だ。

私だって尋ねられたら判らない。
それに、そう、仕事だとかお金だとか名誉だとか、私が死ぬ時にそんなものが必要ないことは判っている。
すると、今どんなに夢を描いて目標たてて頑張っていることがあったとしても、しょせんそれはまぼろしなんじゃないかという気になる。
そう、だから何があっても大丈夫!
ほんとは失うものなんて無いのかもしれない。
とにかく今やらなきゃなことを、がんばろーっと。。。


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05.14.23:40

本気の必死

4月の終わり、超多忙の極みが急~に入った椎葉泊まり取材。
宮崎で神楽といえば高千穂しか思いつかない知識の浅さでのぞんだ椎葉神楽。
椎葉という場所の奥深さを知る旅になった。

__.JPG一昨年から椎葉に何度か行く機会があり、初めて一人で行ったときのように自分で運転しながら車酔いすることはなくなったけれど、行くたびに不思議な感覚になる場所だ。
私がよく行く不土野という地域は熊本寄りなので、西米良から熊本に行き、そこから市房山を越えるルートが近道。
不土野から椎葉の町中である上椎葉までは車で30分ぐらい。
椎葉ダムのダム湖沿いの道を走る。
どこも山に沿うように家が建っている。
里山の風景とはまるで違う。
車で離合できない道が続く。
ところどころに山からの水が流れていて、飲むことができる。

今回は上椎葉から北、南郷村のほうに少し行った場所で村椎地区というところ。
二軒お話しを伺ったが、同じ地区といっても両方ともえらいな山道を行く。
椎葉の神楽は高千穂の神楽とは違い、独自の伝わり方をしているようだ。
椎葉の中でも26に分かれていて、それぞれがそれぞれの形で神楽を継承している。
フジワラカズマ太夫、伊勢の国、赤紫の衣装、荒神、柴引き、宿神、猿田彦・・・
知らない名前や知らないことばかり、それに何より困ったのは、それら神さまの意味や舞うことの意味を、当の本人たちが知らないこと。
80歳は超えている人たちだが、彼らが生まれたときから神楽がその場所にあり、それらと暮らすことが当たり前だったから。
その椎地神楽は後継者が少なく、あと10年もたたないうちに失われてしまうかもしれない。
そこで・・・ヴィスコンティの「山猫」の中のセリフで、民主党の党首選挙の際に小沢一郎が語ったという「変わらずにいるためには自らが変わらなければならない」という言葉を思い出した。

椎葉の26の地区に伝わる神楽は、きっとそれぞれが素晴らしいものなのだと思う。
室町の昔から伝わったものらしいから、残っていけるなら良いが、地区同士の考え方の違いがあり、交わることは難しいようだ。
若い人たちが熱心な地域のものは残るが、そうでないところは衰退していく。
衰退していく地域の人たちも、それを良しとしているのではないが、だからどうするということをしない。
その気持ちに私はとても疲れてしまった。

「残したいなら変わろうとしなよ」とは言えない。
そこにずっと伝わる面があり、それを守ってきた家があり、地域のならわしがある。
それらをただひたすら守って、日常として暮らしてきた人たちがいる。
それはまさに川の流れのように、当たり前に。
ならばそれが喪失に向かって進んでいたとしても、それを理解している彼らがそうしているならば、それで良いのだろう。
簡単にそれを「なぜ?」とは問えない雰囲気が椎葉にはある。

3929902a.jpeg十根川地区にある一本杉と、大ヒノキを見た。
一本杉は十根川神社の境内にある。
その周りに民家が何軒か建っていたが、これも山に沿うように建っている横長の建物で、日本の原風景と呼ばれているそうだ。
そこから車で山のほうに走る。
車を停めて少し歩くと十根川地区を見下ろせる場所がある。
すり鉢のように山と山に囲まれた集落、本当に八つ墓村のようだ。
美しい黄緑色のワサビ田のような場所に立つ大ヒノキが見えてきた。

綺麗ですね、ワサビ田があるんですか?
「ん?あれは墓だよ」
今はもう墓地としては使われてないそうだが、以前は墓地だったところ。
昔のことだから土葬である。
そこに立つ大ヒノキ。
89510b2d.jpeg台風で折れた部分もあるが、枝を大きく広げている姿には怖さを感じた。
近づいて幹に少し触れた。
そこには、流行りの森林セラピーとか癒しとかの言葉は少しも感じない。
むしろひどく居心地が悪い。
あれが畏れという感覚なのかもしれない。

本気の必死さ。
あの大ヒノキと、その周りの雰囲気は、自然がそこに生きることに必死になっている姿だったと思う。
野蛮。
シンプルにそれだけ。

少し深く知った椎葉は重かった。
あまりに重くて、その日宮崎に帰ってきた私はひどい頭痛と吐き気で救急病院で点滴を受ける羽目になった。
すごく疲れた。
7faa39e3.jpeg椎葉は軽く行くところではない。
つくづくそう感じた2日間だった。










 

05.12.12:58

マリリン 7日間の恋 ~映画とか~

マリリン・モンローのイメージはシャネルNO5のポスターだ。

これ。
M-123.jpg
 高校生のときに初めてみて、なんて素敵なんだろうと思った。
小学生の頃からロードショーとスクリーンを毎月読んでいたので、もちろんマリリン・モンローがどんな人なのか、どんな映画に出ているのか知っていたけれど、美女好きの私の食指に少しもヒットしなかった。
ソフィア・ローレン、ジャクリーン・ビセット、小林麻美、多岐川裕美、田中裕子、樋口可南子、基本的に私は金髪には目もくれなかったようである。
(ようやくナオミ・ワッツに出会って金髪に目覚めた)

このポスターに感激しても、モンローの映画を観る気にはならなかった。
ストーリーに興味がわかなかったからだと思う。
時間があれば観てみようかな。

「マリリン 7日間の恋」
映画が大好きな上流階級の青年コリンが、親のコネで入ったローレンス・オリヴィエのプロダクションで映画つくりにたずさわる。
その映画制作の現場で、モンローと関わった日々があった。
24歳の青年にとってそれは素晴らしい青春の1ページになった・・・というお話し。

ミシェル・ウィリアムズは「ブロークバック・マウンテン」「ブルー・バレンタイン」どちらも一般的な家庭の女性の役だったので地味な印象しかなく、まさかこんなに素敵に化けるとは思わなかった。
この映画の中ではとても可愛く魅力的な女性でした。
自然に甘えるしぐさも、キラキラした笑顔も、あんな風に見つめられたら一瞬で恋してしまいそうな瞳も、光り輝く金髪も、真っ白い肌も何もかも。
あの視線には美味しいエサがついていて、向けられたら食いつくしかないような、そんな感じ。

さっきまで腕を組んで肩を寄せて歩いていたのに、好きな人からの呼びかけに、あっさりと走っていく。
でも、ちょっと立ち止まってこちらに駆け戻ってきて、愛情たっぷりのとろけるような表情で「ありがとう」と告げて去っていく。
アーサー・ミラーからの電話を取りに走るマリリンのシーンがツボでした。
コリン青年もイチコロです。
あんな魅力的な年上の女性と関わることができた夢のような日々。
二度と返らない青春の大切な思い出。
それがこの映画です。

マリリン・モンローが抱えていた満たされない孤独。
それはどんな人に愛されたとしても癒されない。
なぜなら本人の問題だから。
育った家庭環境でつくられた精神構造なのか、彼女自身が自分のトラウマに対峙してその不安を取り除こうと努力しないとできないこと。
その点ではとても悲しい人だと思う。
だからこそあんなに魅力的なんだけど。

この作品はコリン青年の話しなので、邦題の付け方は誤りあり。
もう少し考えてくれたら良かったのにと思います。
映画自体、そうたいした話しではないけれど、つまらないタイトルにしてもったいない。

04.30.13:08

ポエトリー アグネスの詩 ~映画~

poetly.jpgこれはものすごい問題作です。。。
よくもまあ、こう描いたと感心します。
観ている最中も観たあとも不快になること間違いなし。
歳をとること、生きること、それらを拒否したくなります。
反面教師を狙ったのではなく、人生をすごーく俯瞰して見たというか、人生や人の全ての部分の二面性を見せたということなのでしょう。
その見せ方、例えにしているところが老婆の「アルツハイマー」や「見栄」なので、そこがあまりにもエグイ。
エグすぎます。
ポスターに騙されて見た人たち、特に年配の人たちは奈落の底におちると思います。
自分たちの存在自体を辱めるような、そんな雰囲気まであるから。

ただ、そこまで人を貶めるテーマで作品を作ったという真っ直ぐさ、中途半端なところがまるでないという部分では感服しました。
嫌いだけど、その点は褒めるべきなのかなと。
褒めるといっても石原慎太郎は嫌いだけど、あれだけの日本規模のわがままぶりってすごいよね、って言うような感じで。

主人公の老婆の背景は何も出てきません。
現在は古いアパートに孫と住んでいる彼女も、子ども時代は裕福だったのだろうか?と思います。
彼女はどこに行くでも綺麗にお洒落をして出掛けます。
必ず帽子をかぶって、セレブな奥さま風。
ホントは生活保護を受けながら、知り合いのお手伝い?風呂に入れる介護のアルバイトをしながら中学生の孫の面倒をみています。
孫は思春期の男の子らしく、怠惰で、言うこともあまりきかず・・・。
もしかすると、決して裕福ではなく古い部屋に住みながらも外に行く時にはあそこまで綺麗にして出掛ける彼女をどこかで馬鹿にしているのかもしれません。
思春期特有の、身内に対する恥ずかしさとか存在自体のどこか欺瞞とか、そんな。

そんな中、たまたま行った病院で簡単な言葉が出なくなってきていることを指摘され、自分にアルツハイマーの症状があることを知ります。
でも、それを毎日のように電話で話しをしているらしい遠くに住む娘には言いません。
もちろん、誰にも言いません。

ある日、孫が同級生の女の子の自殺に関わっていたことが発覚します。
集団で女の子を長い間、性的な慰み者にしていました。
その賠償責任を負わねば・・・というところがこの作品の中心なのですが、一番のミソはこの主人公が持つ、見栄。

馬鹿みたいに見栄を張ることを私は良しとしないけれど、でも、見栄を張らずに生きる人はいません。
誰だって何かしらの見栄は張る。
だからこそちゃんと外に出るときに女は化粧をするし、とりあえず服は着るし、子どもに一般的な学力をつけさせたいから学校にもやる。

そんな小さな当たり前の見栄をどうやって張っているか?
この作品はそこを浮き彫りにします。
私たちだってそうするために上司に我慢したり、クライアントにぺこぺこしたり、やりたくない仕事をやることになったりするわけで、そういう部分を仕事以外の人たちに、周りにみせたくはないでしょう?

それを社会的な弱者である老婆、それもアルツハイマーの症状のある老婆にさせたところが酷い。
誰にだって確実に二面性はあるのに。

抱えきれない現実を見たとき、それに対峙するか逃げるか。
誰だって逃げたい。
その「逃げ」の部分がこの作品の「詩」であり「アルツハイマー」です。
「詩」が、この作品ではあまりにもバカバカしいものとして描かれています。
決してランボーやヴェルレーヌが自身を壊しながら相手を壊しながら創作したようなものだとは扱われていません。
ある意味、主人公の魂の叫びなのでしょうが、軽い。
それは、詩を「逃げ」として使っているから。
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のミュージカル部分とちょっとだけ、ちょっとだけ似ている。
ただ、あれとは主人公が抱えているものが比べ物にならないです。

アルツハイマーもです。
主人公がいったいいつ正気なのか?
そこがハッキリとはわかりません。
きっと正気に戻っていた瞬間、彼女がこの作品の中で唯一ハッキリと女としての自分のプライドを表わした場面は素敵でした。
また、彼女がプライドを捨てて挑んだ行為を、とても用意周到に抱えてそして使ったシーン、そこだけが救いでした。
ほんとにそこだけ。。。

ラスト・・・・あれ、きっと私は残念なことになってるだろうなぁと思います。
はっきりと示されないあのシーンが、この作品全体を表わしているのだと思います。

言ってしまいますが、
私は老婆は死なないと思います。
死なずに、何ごともなかったようにまたあのアパートに帰ってくるのではないでしょうか。
アルツハイマーのある老婆として。

映画としてきれいな展開ならば、あのまま思考は自分の記憶の彼方をさまよいながら、ぼやけた頭で彼女は何処かをさまよい続ける・・・・のでしょう。
一遍の詩と花を残して、詩の教室から姿を消したのですから。

絶対に絶対に、誰にもおすすめしません。。。。が、きっとポスターに騙されて観る人がたくさんいるんだろうなぁと思います・・・・お気の毒に・・・・・・

04.12.19:57

Shall we dance ? ~映画とか~

どうして今頃?な作品だけれど、PTAの色々がある時期なので人は見掛けとかイメージだけで判断できないよ、という話しのついでに。。。

この作品は邦画と洋画と2種類あるが、私は洋画の方が話しとしては好き。
特にラスト、リチャード・ギアが薔薇を手に妻のスーザン・サランドンの職場を訪ねるシーンがとても好き。
夫にそういうことは10000%望んでいないが、お話としては邦画よりもはるかに洋画版が好きだった。
日常にある物足りなさを感じている男が、通勤電車から見えるダンス教室の窓辺に立つ美女に惹かれてダンス教室のドアをたたく。
そこから彼には新しいトキメキが生まれ、新しい毎日に充実感を得る、、、というのが両方に共通する主な話し。

邦画では妻は専業主婦。
洋画ではキャリアウーマン。
邦画で夫が感じているのは平凡な幸せの中に潜む、「何となく」な寂しさ。
洋画では忙しい妻に置いてかれた感の寂しさ。
ダンス教室を辞め、再び平凡な毎日に戻って何ごともなく日々を過ごす、、、ちょっぴり冒険もしちゃったけど・・・というのが邦画のラスト。
ダンス教室は辞めたけど、何だか新しい自分にも気づいちゃったし、妻とも何だかまた新しい関係で頑張っちゃおうかなー・・・・というのが洋画のラスト。

邦画は、竹中直人や渡辺えり子にあははーと笑いながら、草刈民代のターンにウットリしながら、なんだか最後まで悪役のような感じの原日出子の役まわりがどうかあった。
それでも悪くはないかなと思っていたが、洋画を観て邦画のもやもやの理由がハッキリした。
妻は別に何も悪くないし、ちゃんと家事もなにもかもやっているのにあの男め、勝手にしょぼくれて、勝手に盛り上がって、勝手にまたしょぼくれやがって、、、という自分勝手さがイヤなんだった。
それは同じ役所広司の「失楽園」のイヤさと同じ。

そのイヤな邦画版でもひとつだけ好きなところがある。
それは渡辺えり子の役どころ。
彼女は初め、ダンス好きなただの色気おばさんとして登場するが、実は地道に仕事を頑張り、娘も育て、ダンスは唯一自分の楽しみで続けているということがわかる。
それがあるから疲れる仕事も続けていける、自分の人生の色どりとしてダンスがあり、年に一度大きな舞台で踊ることが生きる支えになっているということ。
その可愛らしい庶民感覚がとても好きだった。

で、最初そうとは知らない竹中直人が「エロぼけババア」みたいなことを言っていたが、実は私たちの日常にもそういうことはたくさんある。
私の周りではPTAの活動などがそうだが、「口うるさい」とか「引っ掻きまわす」存在のようにTVや映画では登場する。
少なくとも私の周りはそうではない。
むしろよく活動されてる人の方が学校側とは仲良くされている。
それに、とても素直で良い人たちだと思う。

確かに中にはあまり関わりたくないなぁと思う人たちもいるが、関わらなければすむことなのでほっておく。
そんな好きでも嫌いでもない人たちが、どこでどうしようとどうなろうと私の人生に影響しないし。
そんな人たちも渡辺えり子のように私の知らないところで何かを抱えて生きているのかもしれないし。
知らないけど。

誰かをこうだからこう、という話しはあきまへんという話し。
しつこいけれど。
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