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09.08.07:18 [PR] |
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04.07.00:17 壮大で淫靡な奇天烈話は |
この作品は知る人ぞ知る禁断の・・・というより、私にとって手塚治虫といえばアトムよりもこっち系。
彼の描く世界、絵はセクシーだと思う。
ロボットでもどこかいやらしい。
そんな彼のスタイルは、青少年向け漫画だけではなく、成人向けでいかんなく発揮されている。
生家が貸家をしている場所に喫茶店があった。
父がよくそこで時間をつぶしていたので、私ものぞきに行ってはドライカレーや真中に卵の入ったヤキソバや、モーニングの分厚いトーストを食べていた。
少年サンデーやキング、マガジン、それに成人誌の週刊プレイボーイ、アクション、ビッグコミックも小学生のころからそこで読んでいた。
なんとなくエッチなこと、というのは分かっていたが、我が家に何冊もある『鉄腕アトム』の作者が成人誌に描いていた作品はけた外れに衝撃だった。
それは「あのアトムの作者」が描いたものだから、というだけではなく、内容がとかく秘密めいていたから。
近親相姦、同性愛、幼児性愛、獣姦、現在でも一般的に異常である、と言われる性愛のオンパレード。
中でもゲイの存在を生まれて初めて知った『MW』は印象的。
その『MW』が映画化される。
玉木宏が美しく邪悪な美智雄。
山田孝之が美智雄を愛しながら憎む神父の賀来。
美智雄は女装して女性になりきれるほど美しい男なので、玉木宏でもいいけれど(でもちょっと大きすぎ)、山田孝之はどうだろう?
賀来はもっとごつい大きな男のイメージだった。
これ、すごくソフトに同性愛を匂わす程度だったら残念だなあ。
それも宣伝ではカーチェイスやエアバトルありのエンターティメント超大作、とか出てた。
そーいう場面も確かにあるけど、なんか違うぞ。
この作品はとにかく話が大きい。
大きいけれどドロドロしている。
エンターティメントに成り得る部分と、単館系で密かにじっくり見せる部分とのバランスがとても難しい作品だと思う。
全面的に原作を映画化、とは思わないほうが良いのかもしれない。
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04.03.02:23 イザナギは逃げる |
風はとても強かったけれどお天気で、湾になっている海はあいかわらず波もなく、岬の先に行くとたくさんの潮だまりがあり、小魚がたくさん泳いでいるのが見えた。
お葬式の後、車があった場所を聞いたので、かたづけられる前に行こうと思った。
そこはよく知った所だったので、道のりも景色も容易に思い浮かんだ。
南への道のりはずいぶんと久しぶりで、思い出しては胸が熱くなりそして痛くなる出来事や、その時に見たもの感じたことが溢れて、私がとても不健康なことをしているとつくづく感じた。
心のピースを失ったときの、外に涙が流れるのではなく、内に内に溜まっていく感じ。
私がどんなに悲しんでいても苦しんでいても傷ついていても、他の誰が同じように感じる?
知っていても期待する私がいやだ。
あ、そうだったのか、と知る瞬間は、感情のどこかがスッポリと抜け落ちるようで悲しい。
落ち着いたら、、、落ち着いたら、、、。
どうすれば落ち着けるの?
落ち着きました、大丈夫です、そう言えば安心するんだ?
海辺では、おばあさんとお母さんが小さな子供を連れてお弁当を食べていた。
私もラガービールにお水にお花を持っていた。
すぐに見つかるはずの青い車が見つからない。
用水路、岬の先、そばの保養所、遊園地のまわり、海水浴場。
母に電話しようかと思ったとき、季節はずれの海水浴場の駐車場に車はあった。
見たくなかった、本当は見たくなかった、どうすればいい、どうしよう、どうしよう。
体が震えた。
見たくなかった、車の前は廃墟ではないか。
広いボンネットには猫の足跡があった。
セキュリティシステムがハンドルのそばでチカチカ光っていた。
車からはあの夜よりも野蛮な臭いがした。
太陽の下で、その臭いだけは強烈に生きていた。
桐の棺を抱きしめたように、その臭いがとても懐かしく思えた。
外からのぞいた車の中は暗く、運転席のシートは倒されていた。
助手席にはスーツの上着が畳んであった。
フロントガラスに持ってきたものを置いた。
自分の車に乗るときに、愚かにも私は私に塩をまいた。
車の中で、あの臭いが異様に立ち込めてる気がして窓をあけた。
帰り道、あの子が最後に見たものはあの廃墟だったのだろうか、と切なくなった。
ああそうか、運転席のシートが前に倒れていたのだから後ろにいたんだ、と気がついた。
ならば海が見えたんだ。
あんな廃墟ではなく。
「あたり?」
声に出して尋ねた。
あんた、私には会いたくなかったでしょ?
あんたが見つかってから大変よ、次から次へと、あんたが隠していた色んなこと、私があんたに言ったとおりじゃん、中途半端で甘くて、これで戦えるわけないじゃん。
ごめんね、わざと悪態ついてるの自分でもわかってる。
だけど言いたい。
パパがね、一日一日疲れがたまるって、無理ないよね。
私もどうにかなりそう、車を見たら余計。
めぐちゃんやママはもっと大変、現実と誰より向き合ってる。
パパや私とは大違い。
どこにいるの?
お葬式の後、車があった場所を聞いたので、かたづけられる前に行こうと思った。
そこはよく知った所だったので、道のりも景色も容易に思い浮かんだ。
南への道のりはずいぶんと久しぶりで、思い出しては胸が熱くなりそして痛くなる出来事や、その時に見たもの感じたことが溢れて、私がとても不健康なことをしているとつくづく感じた。
心のピースを失ったときの、外に涙が流れるのではなく、内に内に溜まっていく感じ。
私がどんなに悲しんでいても苦しんでいても傷ついていても、他の誰が同じように感じる?
知っていても期待する私がいやだ。
あ、そうだったのか、と知る瞬間は、感情のどこかがスッポリと抜け落ちるようで悲しい。
落ち着いたら、、、落ち着いたら、、、。
どうすれば落ち着けるの?
落ち着きました、大丈夫です、そう言えば安心するんだ?
海辺では、おばあさんとお母さんが小さな子供を連れてお弁当を食べていた。
私もラガービールにお水にお花を持っていた。
すぐに見つかるはずの青い車が見つからない。
用水路、岬の先、そばの保養所、遊園地のまわり、海水浴場。
母に電話しようかと思ったとき、季節はずれの海水浴場の駐車場に車はあった。
見たくなかった、本当は見たくなかった、どうすればいい、どうしよう、どうしよう。
体が震えた。
見たくなかった、車の前は廃墟ではないか。
広いボンネットには猫の足跡があった。
セキュリティシステムがハンドルのそばでチカチカ光っていた。
車からはあの夜よりも野蛮な臭いがした。
太陽の下で、その臭いだけは強烈に生きていた。
桐の棺を抱きしめたように、その臭いがとても懐かしく思えた。
外からのぞいた車の中は暗く、運転席のシートは倒されていた。
助手席にはスーツの上着が畳んであった。
フロントガラスに持ってきたものを置いた。
自分の車に乗るときに、愚かにも私は私に塩をまいた。
車の中で、あの臭いが異様に立ち込めてる気がして窓をあけた。
帰り道、あの子が最後に見たものはあの廃墟だったのだろうか、と切なくなった。
ああそうか、運転席のシートが前に倒れていたのだから後ろにいたんだ、と気がついた。
ならば海が見えたんだ。
あんな廃墟ではなく。
「あたり?」
声に出して尋ねた。
あんた、私には会いたくなかったでしょ?
あんたが見つかってから大変よ、次から次へと、あんたが隠していた色んなこと、私があんたに言ったとおりじゃん、中途半端で甘くて、これで戦えるわけないじゃん。
ごめんね、わざと悪態ついてるの自分でもわかってる。
だけど言いたい。
パパがね、一日一日疲れがたまるって、無理ないよね。
私もどうにかなりそう、車を見たら余計。
めぐちゃんやママはもっと大変、現実と誰より向き合ってる。
パパや私とは大違い。
どこにいるの?
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04.01.17:20 これは想像のストーリー |
父は見たかった。
私は見たかった。
棺を開けるなど不謹慎であり得ないことだとわかっていても、
私たちは見たかった。
大きな保冷剤が置かれた濃い灰色のビニール袋は、彼の姿ではない。
かなり壊してしまった桐の箱からの臭いは、道端の植え込みから時折流れてくる動物の死骸のそれと、消毒とビニールと、ホームレスがたむろする駅構内の汚物とが混ざり、立ち上るだけでそこにいるだけで、生きている私たちの全身に世界中の悪意や憎悪や耐えきれないほどの悲しみが染みてしまうような、泥々の臭いだった。
わかっていても、それはすでに人ではなく、目のあたりに置かれたガーゼは焦げ茶に汚れ、顔も髪も見分けもつかず、ただ茶色とも緑ともわからないものが見えただけ。
私たちは大きく震えながらビニール袋のチャックを閉めた。
震えながらもう一度棺に釘を打った。
窓を開け、真夜中の空気を胸いっぱいに吸った。
線香を焚き、狂ったようにむせながら吸った。
煙草のけむりを、まるで極楽の蓮の花からの芳香のように思った。
父と私だけで良かった。
こんなことをするのは、私たちしかいなかった。
彼を傷つけてしまった贖罪には程遠く、だからこそどんな姿であっても見たかった。
「おまえだけは、俺より先に死ぬな」
うなづけなかった。
今、見たものの大きさが、悲しみも後悔も人らしい感情のなにもかも、私の中から流してしまったかのようで、ただそこにいて、燃えるように立ち上るお香の煙だけが生きているようだった。
『winter song』が流れてきて我にかえった。
私は此の岸にいることに感謝した。
私は見たかった。
棺を開けるなど不謹慎であり得ないことだとわかっていても、
私たちは見たかった。
大きな保冷剤が置かれた濃い灰色のビニール袋は、彼の姿ではない。
かなり壊してしまった桐の箱からの臭いは、道端の植え込みから時折流れてくる動物の死骸のそれと、消毒とビニールと、ホームレスがたむろする駅構内の汚物とが混ざり、立ち上るだけでそこにいるだけで、生きている私たちの全身に世界中の悪意や憎悪や耐えきれないほどの悲しみが染みてしまうような、泥々の臭いだった。
わかっていても、それはすでに人ではなく、目のあたりに置かれたガーゼは焦げ茶に汚れ、顔も髪も見分けもつかず、ただ茶色とも緑ともわからないものが見えただけ。
私たちは大きく震えながらビニール袋のチャックを閉めた。
震えながらもう一度棺に釘を打った。
窓を開け、真夜中の空気を胸いっぱいに吸った。
線香を焚き、狂ったようにむせながら吸った。
煙草のけむりを、まるで極楽の蓮の花からの芳香のように思った。
父と私だけで良かった。
こんなことをするのは、私たちしかいなかった。
彼を傷つけてしまった贖罪には程遠く、だからこそどんな姿であっても見たかった。
「おまえだけは、俺より先に死ぬな」
うなづけなかった。
今、見たものの大きさが、悲しみも後悔も人らしい感情のなにもかも、私の中から流してしまったかのようで、ただそこにいて、燃えるように立ち上るお香の煙だけが生きているようだった。
『winter song』が流れてきて我にかえった。
私は此の岸にいることに感謝した。
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03.26.00:12 ひとつずつの そしてひとつの |
時はすべてを連れていくものらしい
なのにどうして寂しさを置き忘れていくの
いくつになれば人懐かしさを
うまく捨てられるようになるの
難しいこと望んじゃいない
有り得ないこと望んじゃいない
時よ最後に残してくれるなら
寂しさのぶんだけ愚かさをください
おまえとわたしはたとえば二隻の舟
暗い海を渡っていくひとつひとつの舟
互いの姿は波に隔てられていても
同じ歌を歌いながらいく二隻の舟
時流を泳ぐ海鳥たちは
むごい摂理をささやくばかり
いつかちぎれる絆みたさに
高く高く高く
敢えなく私が波に砕ける日には
どこかでおまえの舟がかすかにきしむだろう
それだけのことで私は海をゆけるよ
たとえ舫い綱は切れて嵐にのまれても
きこえてくるよどんな時も
おまえの悲鳴が胸にきこえてくるよ
越えてゆけと叫ぶ声がゆくてを照らす
難しいこと望んじゃいない
有り得ないこと望んじゃいないのに
風は強く波は高く闇は深く星もみえない
風は強く波は高く暗い海は果てるともなく
風の中で波の中でたかが愛は木の葉のように
わたしたちは二隻の舟ひとつずつのそしてひとつの
わたしたちは二隻の舟ひとつずつのそしてひとつの
わたしたちは二隻の舟
中島みゆき「二隻の舟」
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03.25.01:25 あなたが空しく生きた今日 |
「あなたが空しく生きた今日は、昨日死んでいった人が、あれほど生きたいと願った明日」
「生」と「死」についてしょっちゅう考えるようになっている。
生きる、とか死ぬ、という単純な意味だけでなく、「どう生きる」だの「どう死ぬか」だの、考えたってなるときはなるのよ!という、正常な感覚の時ならば「考えたって仕方ないじゃん」と思えることまで考えているので困ったものである。
もっと困ったことに、そういうことを考えだすと性欲までが減退してしまう、という性質を持っているので、好みの男女を見てもときめかない。
これは!という文章にも音楽にも映画にも人にも、みょうにpeaceなイメージしか湧かず、悶々とした修行僧のようだった今までの私が、何かを悟ったかのような剃髪した尼さんみたいな気分だ。
中村久子という人がいた。
両手両足を幼いころに失って、「ダルマ娘」として見世物小屋にいた人。
短い両腕と口を使って裁縫をする。
美しい書を書ける。
料理もできる。
ハサミも使える。
アイロンもかける。
それでも彼女は嘆く。
「この手では拝めない」
知り合いが他のブログで書いていた言葉には『ある不幸。ない幸せ』(だったと思う)そうあった。
四肢満足にしている誰もが天を拝むのか?
拝みたくても拝めないと嘆く心を、どれだけの人が思うのか?
嘆く心の気高さを、わかる心を持てるのか?
さまざまな出来事、思考に阻まれ、こうして生きている、生かされている幸せに気づけない。
なんと罰当たりなことだろう。
誰の上にも同じように空はあること、あやまちを犯さねば気付かない。
私たちは何と傲慢なのだろう。
ただ、やはり私はこんな気持ちのまま、深く狭く広く浅く、物事を考え、あやまちを犯し、傷つけ傷つき、叶わぬ願いを抱きながら生きていくのだと思う。
「生」と「死」についてしょっちゅう考えるようになっている。
生きる、とか死ぬ、という単純な意味だけでなく、「どう生きる」だの「どう死ぬか」だの、考えたってなるときはなるのよ!という、正常な感覚の時ならば「考えたって仕方ないじゃん」と思えることまで考えているので困ったものである。
もっと困ったことに、そういうことを考えだすと性欲までが減退してしまう、という性質を持っているので、好みの男女を見てもときめかない。
これは!という文章にも音楽にも映画にも人にも、みょうにpeaceなイメージしか湧かず、悶々とした修行僧のようだった今までの私が、何かを悟ったかのような剃髪した尼さんみたいな気分だ。
両手両足を幼いころに失って、「ダルマ娘」として見世物小屋にいた人。
短い両腕と口を使って裁縫をする。
美しい書を書ける。
料理もできる。
ハサミも使える。
アイロンもかける。
それでも彼女は嘆く。
「この手では拝めない」
知り合いが他のブログで書いていた言葉には『ある不幸。ない幸せ』(だったと思う)そうあった。
四肢満足にしている誰もが天を拝むのか?
拝みたくても拝めないと嘆く心を、どれだけの人が思うのか?
嘆く心の気高さを、わかる心を持てるのか?
さまざまな出来事、思考に阻まれ、こうして生きている、生かされている幸せに気づけない。
なんと罰当たりなことだろう。
誰の上にも同じように空はあること、あやまちを犯さねば気付かない。
私たちは何と傲慢なのだろう。
ただ、やはり私はこんな気持ちのまま、深く狭く広く浅く、物事を考え、あやまちを犯し、傷つけ傷つき、叶わぬ願いを抱きながら生きていくのだと思う。