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  • 04/19/19:23

07.18.22:33

夏至 ~映画~

今さらな作品だが、「青きパパイヤの香り」がレンタル中だったので。
色合いはとても素敵。
初めてベトナムに憧れたのは「ラマン」を観た時だったけれど、着ている服や、建物と街の色合いが、とても好き。
特にトラン・アン・ユン監督の作る映像が美しいのか、色合いのとても美しい作品だった。
その他は、物語があってないような。

三姉妹それぞれが持っていた、思い人への疑惑。
疑惑を抱えながら、夫以外の人と重ねる逢瀬や、大きくなっていくお腹や、恋人のように仲の良い兄との馬鹿騒ぎなどで日々をやり過ごしていくさま。
それらが鮮やかな色彩と、熱帯の匂うような雰囲気で表わされる。
ともすると、バカバカしくも見えるような彼らの営みは、実は私たちの日々の暮らしと似ている。
むしろ、そのもの、なのかもしれない。

仕事先で出会った女との間に子どもまでいる長女の夫。
初めての子を流産したことで傷ついている長女は、よそよそしい態度をとる夫に諦めのような感覚を持つ。
そんな時に出会った年下の男との情事を、止めることが出来ずにいる。

旅先で出会った女性に声をかけ、部屋に誘われたのに寝姿を見るだけで何もせずに部屋を出る二女の夫。
二女は、夫のスーツから部屋のメモをみつけ、夫の浮気を確信し、泣き崩れる。
きっと夫を責めない。
ただし、今だけは。

三女の存在はどのような意味を持つのだろう。
兄を恋人のように慕い、彼のベッドにもぐりこみ、子どものようにはしゃいでいる。
気になる異性はいるが、まだ彼とも特定の間柄ではないらしい。
少しの勘違いも含めて。
そう、彼女こそがいきなりのスコールや、蒸れて匂い立つような熱帯の花や、果物や、色彩のような、夏の化身なのかもしれない。

三女の勘違いの告白から、長女も二女も、隠していた涙を見せる。
だからといって、何も変わらない。
それぞれの思いはそのままに、ただ、日常は流れて行く。

色彩がとても印象的な作品。
観てすぐに心を掴まれるような部分はなくても、いつか、あ、この感覚、と、思い出すような、そんな雰囲気。
なのかなぁ・・・・・

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05.23.21:23

アレクサンドリア ~映画~

agora.jpgもう少し話題になっても良いんじゃ?と思うのに、ほとんど話題になっていない残念な作品。
キリスト教に対して、あまりにも嫌悪感を持たせる作りになっているから?
以下、1987フォーラムに追記いれつつー。

4世紀のアレキサンドリア。
単純に考えれば、美しく聡明な天文学者で哲学者のヒュパティアは自分の信じる学問と信念に殉じた、というそれは立派なお話・・・なのですが、宇宙から見た「人間」という存在の何と小さなこと!
人々が生活したり、争っている様子を俯瞰する映像がたびたび出てくるのですが、人間的な弱さや宗教を描いているアメナーバル監督の視線、精神の大きさ、そして神ではなく、宇宙を含む大いなるものの視線がテーマなのでは?と思いました。

昼がきて夜がくるのはなぜなのか、なぜ丸いものから人が落ちずに立っていられるのか、まだ他の星々は地球を中心にまわっていると考えられていた時代に、ヒュパティアは考えます。
冬と夏の太陽の大きさが違うこと。
太陽の周りを地球が周っているなら、それはどんな軌道になるのか?
宇宙の秘密は学問で解明できると信じて。

彼女は暴徒と化したキリスト教徒に惨殺されるのですが(史実では裸にされて生きたまま貝殻で肉をそぎ落とされた)、そのような暴挙に遭ったのは信念に生きたからだけではなく、彼女のおごりもあったのでは。
奴隷を普段から普通に使う特権階級に生まれたおごり。
もうひとつ、これをおごりと言うのかは判りませんが、学問によって宇宙(自然)の領域に足を踏み入れたこと。
それらはまさに今、私たちが直面している原子力発電所の事故にも通じるものです。
人間が本来持ってはいけない知恵によって(旧約聖書的な考え方でいえば)自然界を操作したことによる事故。
ヒュパティアは「宇宙の謎を明らかにしたい」という純粋な思いで研究に没頭します。
それは研究者ならば当然の欲求でしょう。
しかし、いつしかそれが高じて私たち人間は今、自然の摂理までをも変えています。
その報いをいくつも受けているのです。

単純に学問の素晴らしさ、学ぶことの面白さ、それらに没頭できる純粋さは高貴で美しいです。
しかし、それらは一部の人間に許されたもので、多くの奴隷たちの犠牲によってもたらされたものでもありました。
ヒュパティアも何の疑いもなく、奴隷を意のままに使っていました。
それでも学問に打ち込む彼女は美しいし、ひとつの宇宙の謎が解き明かされたときの感動は、言葉にできないほどです。
千年以上前に、こんなに真摯に学問に打ち込む女性がいたことは、同じ女性としてとても誇らしく思えるほど。

私は実在の人物を描いた作品をあまり好きではありません。
作品だけでその人のことを語りそうになるからです。
しかし、女性として顔を上げ真っ直ぐに立っていること、男だとか女だとか関係なく学問は誰にでも等しく、頭上に灯りを照らすものだということ、その点目が覚める思いがする演出でした。

それと、悲しいほどのプラトニックな愛の形が切ないです。
プラトニックだけど、元奴隷ダオスのヒュパティアへの愛は最後、キリスト教的究極でした。。。
慈悲という名の。
彼はあの時ですら、キリスト教徒であり続けました。

無宗教の私には宗教を生きる拠り所にする人たちの気持ちは理解不能です。
自分が信じるのもが正しい。
だからその枠を超えるものは排除する。
決して共存しようとしない。
宗教で争うこと、私には矛盾しているとしか思えないし、言い争っている姿も田嶋先生と勝谷さんのああ言えばこう言うやり取りにしか見えない。
そんな人々の争いや営みを、何度も高い場所からの視線で描かれます。

今でも本を捨てることは身につまされる感じでとうてい出来ないのですが、焚書とか、本を邪険に扱う映像はイヤですねぇ。
どうしてあんなに野蛮に見えるのでしょうね。

レイチェル・ワイズが美しいです。
弟子のオレステスを演じたオスカー・アイザック、ダオスのマックス・ミンゲラも素敵でした。

で、地球の楕円の軌道がなんであんな風に導き出されたのか、誰か私にわかるように説明してください・・・

05.15.12:32

ブラック・スワン ~映画~

blackswan1.jpg1987フォーラム入れたものにネタバレします。

作品は、良くもなく悪くもなく。
大々的に宣伝している作品ですが(ローカル番組のシネマ情報でもやっていて驚いた)、興行収入だけを考えればそうしたいのはわかるけど、ホントは観る人を選ぶ作品じゃないかなぁと思いました。
どんな人にでも楽しめる、デートムービーになんか絶対にならないし。。。

主人公ニナ(ナタリー・ポートマン)のキャラが最初から最後まで痛くてたまりません。
あまりに極端で残念で気の毒な人。
そんなキャラを演じきったナタリー・ポートマンはすごいなぁ、格好良かったなぁ!鹿児島の小野さんと同じく「完璧」だと思いましたが、これが主演女優賞を取るほどかと言えば疑問。
そう感じたのはきっと、作品が薄いからだと思います。
サスペンス、ホラー、ヒューマンドラマ、それにバレエの舞台というエンターテインメントの4つの要素があって、サスペンスと特にホラーの部分が余計です。
なんであんな演出にしたのでしょう。
ヘタするとトンデモ映画になりそうだったところを、主演女優がアカデミー賞取れるほどにしたさじ加減は見事!なのでしょうが。。。
まさにナタリー・ポートマンの独り舞台。
「Its my turn!」彼女の中の悪魔と天使が交互に支配する、彼女の独壇場です。

何かを極めようとすると、自分自身との対話が必ず必要になってくるので、生活が健やかでないと、精神はおかしくなっていくでしょう。
ニナは、娘依存の母親がいるために精神を病んでいきます。
彼女は性の衝動を、自慰することで発散しているのですが(振付師にやれと言われたからじゃなく、前からやってたと思われ)、多分、健康的な思春期を送ることができなかったため(友だちと好きな人の話で盛り上がったり、親には内緒の「悪いこと」をしてみたり)、性=悪、と自分自身で決めてしまっています。
その点は、娘をいつまでも子ども扱いする母親の影響でしょう。
ニナが肩甲骨のあたりを掻きむしっているのですが、あれは私もよくやります。
あのあたりは身体のつぼがあって、掻くと気持ちが良いのです。
ニナと同じように、血がでて傷がつくまで掻くときもあり、あの気持ちはよくわかります(^^ゞ
ニナはそれを母親に咎められ、爪を切られるのですが、つまりはあの場面で暗に自慰を咎められているのです。
気の毒なニナ。。。
彼女が指から血を流す幻をよく見るのは、「悪いことをすると母から爪を切られて痛い思いをする」からですね。
また、自分の部屋で自慰するのに、わざわざ母親が入ってこないよう、ドアにつっかえ棒をして・・・というのも悲しすぎます。
彼女は「白鳥の湖」の主役の座をいとめ、プレッシャーでつぶれる前に、すでに十分精神を病んでいたのです。
「不感症の小娘」という悪口は、モンスターペアレントさながらバレエ団に電話をする母親の姿と、山岸涼子先生の漫画に登場するような(「舞姫テレプシコーレ」じゃなく「天人唐草」とか)臆病で繊細な性質をもったニナをみていれば、団員の誰でもが彼女がまだ処女だろうことはわかるから。

また、母親はニナにプリマになってほしいとは本当は思っていません。
娘がバレリーナでいてほしいだけです。
でもニナはそう思っていません。
母親にプリマドンナになることを望まれていると思い込んでいます。
その思い込み、お互いの意思の疎通のなさが悲劇です。

物語は古典的です。
予告で誰もが想像したとおりの話。
まず「キャリー」を思い出しました。
話が進むにつれ、「マルホランド・ドライブ」になるのかと思いきや「世にも怪奇な物語」の「影を殺した男(ウィリアム・ウィルソン)」。
しかし、かくされた意味や物語がどこかにあるのかも?とも思います。
もしかするとウィノナ・ライダー(プリマの座を奪われるバレリーナ)の夢物語では?とか。
でも、ホントに意味はないような気も・・・。
もし、「マルホ」のブルーボックス的なアイテムが登場していたら、少しは物語に厚みがあったんじゃないかなぁと思います。
あくまでも私の主観なので、私の気付かない意味があったのかもしれません・・・。
ニナの持つ二面性が、どこかで交錯する鍵がないです。
それが事故に遭い、入院しているウィノナ・ライダーを見舞うところだったのか・・・
それともリリー(ミラ・クルス)とのセックスシーンなのか・・・
ちょっと判りません。
リリーとのセックスは、ホントのところは薬に酔ったニナが思い切り自慰した、ということなのですが、それもまた気の毒。
リリーめ、無理矢理やってやれば良かったのに・・・と思いました。
ニナに足りなかったのは、誰かとのめくるめくセックス。
実はそれだけ。

それにしてもバレエは美しいなぁ~。
日々の鍛錬があの舞台を作ります。
まさに選ばれた者だけが作ることができる、芸術です。

05.10.10:10

ザ・ファイター ~映画~

1987フォーラムに書いたものに補足しつつ。

何がテーマなのかが判らない作品でした。
映画の中でもお兄さんのドキュメンタリーを撮っていましたが、作品自体がドキュメンタリーというか、ホームビデオみたい。

この作品の母親のような息子ラブお母さんは普通に日本の中でもわんさといる。
息子ラブというか、その実、自分の事が世の中で一番好きなんですが。
私事になりますが、マーク・ウォルバーグが母親に「僕だってお母さんの息子なのに」みたいな事を訴えて泣くシーンがあったが、弟が死んだ頃に私も同じようなことを母に言ったことがある。
ざっと見渡すと、世の母親は息子(それもひとりだけ)に対しては大なり小なり似たようなものじゃないか。

外国的(というか映画で知ってるアメリカ的)なのはお姉さんなのか妹たちなのか判りませんが、変な女の人たちがゴロゴロ同じ家に住んでいて昼間っからたむろってお菓子食べてたり・・・って姿にヤク中の兄、すぐにヒーローを作りたがるご近所さん。
この作品で何が言いたいのか、何が見どころなのか最後まで判りませんでした。
こういう家族がいましたよ、という記録映画。

この作品の母親が息子ラブ、というか娘たちに対してもあれだけの数が家の中にゴロゴロしているのだから、ほとんどネグレクトに近い。
子どもの面倒を見るとか甘いのではなく、見て見ぬふりではないか。
服装や髪形を気にしているところをみると(全然オシャレではないけれど)、自分に対しては気を使っている。
やはり自分のことが世の中で一番好きな女性。
とにかくその手の女性は世の中に掃いて捨てるほどいるので、別にめずらしくも何ともなく、そんな女性の尻にしかれながらもあんなにたくさん子どもを作っている夫がいて、息子ふたりがいろいろあったけれどボクシングで世界の頂点にまで登りましたよ、というちょっと不思議なお話なのであった。
お昼のメロドラマぽい。

ほんとにねぇ・・・・
ボクシングで頂点を取るって、けっこうスゴイことだと思うのだが、大したことないんじゃ?と思わせるところがボクシングファンとしては腹立たしい。
なおかつ、この作品が感動作のような扱いになっている雰囲気なのがわからない。
家族愛とか兄弟愛とか、この作品からはわからない。
少なくとも私には伝わらなかった。




05.02.00:08

愛する人 ~映画~

naomi1.jpgひさびさ、まじ、女にドキドキした・・・
ナオミ・ワッツの綺麗なこと!
この人、ピーター・ジャクソン版「キングコング」で、コングとNYで再会するシーンの美しさが際立ってましたが、今回の美人ぶりはもう~。
そりゃーあれだけのいい女が自分が経営する会社に入ってきたら、サミュエル・L・ジャクソンじゃなくても食事に誘いたくなります。
彼女はモッツァレラチーズのようなピチピチしてる魅力じゃなく、やはりブルーチーズでしょう。。。
なんだかもう、彼女の出世作「マルホランド・ドライブ」の鍵となる、まさにブルーボックスを開ける鍵のごとく妖しく、謎めいて、味がある。
とても美味しくてあぶない女性。
いろんな意味で大人な女性です。
ホンッとに綺麗でした。

0484ce01.jpeg幼い頃に養子に出された女性(ナオミ・ワッツ)と、その産みの母(アネット・ベニング)を軸に、彼女たちに恋する男性たち、これから養子を迎えようとしている夫婦、などのお話がからんでいきます。
登場するそれぞれの親子関係で、娘の存在がとても重要な役割になっています。
時に親にアドバイスしたり、気を使ったり、心配させたり、わがまま言って叱られたり。
娘っていいなぁと思わせます。

女性はいつ、母親になるのか?
子どもを産んだとき、ではないことを、きっと多くの女性たちは認識しているはず。
誰もがとまどいながら子どもを宿し、お腹の中で育て、産む。
子育ても、とまどいながら、悩みながら。
周りからは母親に見られていても、自分でそうだとは思えない。
そんな毎日を送りながら子どもと一緒に成長しています。
そう、子どもと一緒に母親になっていくのだと思います。
子どもを産んだから母親になるのではありません。
自分で子どもを産むことができなくても、または自分が産んだ子どもではなくても、女性はいつかその子に対して母親になります。
母性は、子どもを産む産まないに関係なく、自覚すればいつか芽生えるものだと信じます。

naomi2.jpg子どもは女性のお腹に宿ったときから、その人に無償の愛をくれています。
女性は、お腹の中で懸命に生きている存在を感じながら、自然といとおしむ気持ちも一緒に育みます。
または生まれたあとに自分を心からの信頼を持って見つめる、子どもの瞳から。
人は愛されていると自覚したとき、自分に対しての自信を持つことができるものです。
母と子どもとの信頼関係は、そこから始まります。
子どもは母親に愛され、すくすくと育ち、同時に子どもから愛されていると実感して母親も健やかに生きられるのです。

この作品には、健やかに生きようとする母親たちが登場します。
生まれたばかりの赤ちゃんに、伸ばした手がたとえ届かなくても、その子をお腹の中で愛して育てていたなら子どもには伝わっているのかもしれません。
血がつながっていようと、いまいと、子どもからの無償の愛を感じられたとき、女性は母親になるのかもしれません。
子どもという存在は、女性にとって母性を目覚めさせる大切な、大きな存在なのだと、改めて感じました。

とても淡々としながら、大きな流れとして、女性が母親になることを柱とした、温かい作品でした。
あ、鹿児島のOさんがナオミ・ワッツの展開が以外だった、という話ですが、彼女は結局アネット・ベニングにとっての娘=母を愛する人、だったってことですよね。
アネット・ベニングの成長の物語だったってことでしょうか。