![]() |
06.10.04:15 [PR] |
![]() |
07.05.00:35 それでも恋するバルセロナ ~映画~ |
そこで出会う風景、人、それら全てはそこだけにあるもので、旅する異邦人は期限付きの自由を楽しめばいい。
堅実なヴィッキーと奔放なクリスティーナ。
ふたりは夏休みの間、ヴィッキーの親戚のいるバルセロナに滞在する。
そこで出会ったセクシーな画家、美しい画家の元妻、彼らとのひと夏バルセロナの出来事。
旅先だし、相手は後腐れなさそうな男、ファン。
彼はクラクラするほど危ない魅力に溢れた大人の男。
乗るしかない!と単純に楽しむクリスティーナ。
その前にそんな男、イヤだイヤだと言っていた婚約者付きのヴィッキーは、つい、彼に自分の殻を破られてしまい、本気になってしまう。
マリアはペネロペ・クルス。
ちょっと・・・・あんな女が髪をかきあげ、髪を乱し、挑発的にこちらを見つめ、またはけだるく煙草をゆらし、全身で求めてきたら拒めない。
もうほんと、ありがとう!って。
危険でセクシーな男と女に愛されて、クリスティーナ、羨ましいったらありゃしない。
愛し合っていても傷つけあう夫婦関係だった彼らだが、クリスティーナという新しい力のベクトルで、見事なトライアングルが出来上がる。
それは素晴らしい奇跡のような男女関係・・・
若者ふたりの『旅情』。
キャサリン・ヘプバーンは、出会った男から「据え膳なんだから食べろよ!」と説教されたが、ヴィッキーはそれに近い。
食べてみたらとても良くて、今まで自分が信じてきた堅実な生活が、なんとつまらないものか気付く。
だってあの婚約者、どんなに一生懸命にいやらしいセリフで彼女を誘っても似合わない。
失笑する、言われて気持ち悪い。
分相応じゃないと、自然に口をつく言葉じゃないと、愛を語るなら白けてしまう。
それでも旅は旅。
いつか帰るべき場所に帰る。
旅人も迎える立場も、出会えば必ず別れがあることがルール。
今回はスペイン、英語もスペイン語も入り混じり、ひと夏の喧噪を楽しむだけ。
と、ドキドキしながら観ていると、最後に「えー?やられたー」と感じる。
ラストのヴィッキーとクリスティーナの表情がとても面白かった。
意味があるの?どうなの?結局これって・・・・?
そんな作品。
スカーレット・ヨハンソンとペネロペ・クルスのキスシーン、暗室だったけど綺麗だった。
そりゃそうよね、アメリカ、ヨーロッパを代表するセクシーな女優同士だもの。
お互いの腕をなぞる指にぞくぞくした。
ペネロペ、顔ちっさい!
スカヨハ、小悪魔的なのに、この人どうしていつも「持ってかれ役」なんだろう。
今回は一矢報いますが。
私は軽く観たけれど、それ以上に何か意味があったんだろうか・・・・
PR
![]() |
07.01.15:52 愛を読むひと ~映画~ |
この作品は全体を通して、とても気持ちの良い印象。
展開やセリフに奇をてらう部分がなく、すんなりと納得できる、という意味で。
前半はハンナとマイケルの出会いと別れ。
女ひとり暮らしの部屋に、自分に気があるピチピチの男の子が裸でいたら、そりゃこっちも裸で迎えますね。
その部分だけは「おお♪いきなりきたか」と思った。
不思議といやらしさを感じないセックスシーンだった。
彼女の少年に対する「この一度は最後の一度」そんな、未来を諦めながら関係を続けている切実さだけを感じていた。
自分以外に興味を示し始めている彼を感じ取り、がしがし彼の体を洗ってやって、いつものように最後の一度のセックスをして、彼を抱きながら「皆のところに行け」というシーン。
あの真摯で綺麗な流れといったら・・・・
後半のハンナにも共通している気持ちは「潔さ」。
自分が元ナチSSとして行った行為に対しての潔さ。
傷つけた相手に対しての潔さ。
そして、自らの「恥」に対しての潔さ。
「the」に泣かされたのは初めて・・・
良いことであれ、社会的に抹殺されるべき忌まわしいことであれ。
起こしてしまったことに対する贖罪は、その後の生き方、考え方に現れる。
少なくともハンナは、苦しみながら、少年を愛しながら、自分を律して生きてきたのだと思う。
罪のつぐないも、行為への思いも、本人でしか選択できない、語ることもできない。
それでも正義や道理を言いたがる社会は、そこに何か言葉や意味を求めたがる。
愚かなことだ。
ハンナはドイツ女の誇りを持って寡黙に語り、ユダヤ人少女だったレディは、ユダヤ人らしく雄弁に語った自らの思い。
ひとつの大きな出来事に対するふたりの女性の姿勢は、いつまでも甘いままの少年を少しは大人に変えた。
![]() |
06.30.17:13 エデンの東 ~映画~ |
映画ファンでその名を聞いたことない!なんて人はいないだろう作品名と、主演男優名。
ジェームス・ディーンの作品は今まで『理由なき反抗』しか観たことなかった。
実は『理由~』はピンと来ず、LAに旅行に行った際、舞台になったグリフィス天文台を観光して感激した程度。
『エデンの東』も知っていたのはほとんど名前だけで、原作者はテネシー・ウィリアムズだと思っていたぐらいなので、予備知識もなにもなかった。
ジェームス・ディーンは、無謀でほっとけない、甘え上手でヤンチャな年下の男の子、という感じだった。
おりこうさんと頭の悪い男は嫌い。
流行ってるらしい『草食系』には、絶対抱かれてなんかやるものか。
その点ではキャルのキャラクターは軟弱に見えるけど素敵だわ。。。
アロンとキャルの兄弟。
素直で父に愛されている兄のアロン、ひねくれてみせている弟のキャル。
キャルも父に愛されたい、と心から願っている。
でも、お互い優しすぎて、母のいないこの家族には、きっと本音をさらけだす場所がなかったのだろう。
3人とも、どこかズレている。
でも、お互いのことを思い合っている。
ズレながら。
父の誕生日に、部屋をきれいに飾りつけして喜ぶ彼の姿がなんとも愛おしい。
兄の彼女もそんな彼の気持ちを理解している。
彼の孤独も理解している。
観覧車でのふたりのキスは、儚くてとても切なかった。
作品は、主人公が思いを遂げる、という形で終わっているので、「わぁー、感動したわぁー♪」めでたし、めでたし・・・・と劇場をあとにしたいところだが、最後にひとり、仲間はずれのように終わってしまったアロンが気になる。
アロン・・・・・いくつなのか解らないけど、あんなにヤワでいいんだろうか・・・・・
だめだめじゃん。
映画ではアロンの話が途切れてしまったようになっている。
そこが残念。
でも、ジェームス・ディーンの魅力を感じるには、とても良い作品だったと思う。
キネマ館のクラシックラインナップ、今のところはずれなし。
さすがはI田氏の眼力、ということか。
映画館で観るべき作品なんだと思った。
![]() |
06.24.14:56 スラムドッグ$ミリオネア ~映画~ |
この作品は、インドという国の闇の部分を舞台に、見事な生命力を持って描いていながら最後、インド映画風の恋愛冒険活劇に終わらせたところがいい。
ラティカの可愛いことーーーー・・・
あの笑顔・・・あの優しい瞳・・・
ちょっと石田ゆり子似。
障害のある恋愛を成就させるためには、自分が大きくならなきゃ!周りに負けないよう、押しも押されぬ大物になれば、もう一度好きだって言える!もう一度向かい合える!
そんな気持ちは痛いほどよくわかる。
私、この漫画の最後のページを読んで、思わずぐっっっときた。
刑事と話をしながら、クイズに答えながら、ジャマールの頭にあるラティカの笑顔が美しすぎて。
わかるよ!ジャマール!応援してるぞー!
誰かのノンフィクションで、フィリピンのスラムに住んでいる子どもたちの肌はとても綺麗だ、という話を読んだことがある。
さすがに私はできないが、汚物の浮いた水で遊ぶ子供たちの肌は細菌に対しての抵抗力がしっかり備わっていて、ぴかぴかつやつやしているとか・・・
アトピーだアレルギーだ、とヤワに暮らしている私たちには到底できない暮らしぶり。
インドも同じで、聖なる河、ガンジスは沐浴してる人のすぐそばで火葬したあとの死体をざーっと流していたり、または映画にもでてきたような、汚物もゴミも流し放題、だけどそこで洗濯もし放題、顔だって洗いますとも・・・
描かれていた行動が善きにつけ、悪しきにつけ、とにかく暴力的なほどの生命力に溢れた作品だった。
イスラム教徒に襲いかかるヒンズー教徒の群れですら。
インドという国がそうなのだろうか、物乞いをしている子ども、盲目で歌を歌って小銭を稼ぐ子ども、または売春をしている子ども、どうしてあんなにキラキラしているんだろう。
瞳は力強く、笑顔は輝き、狡猾さにもソツがなく、生き抜くための力に満ちている。
舞台設定の妙、こういう作り方もあるんだ!と感心した。
ラティカー♪
何という女優さんなのか難しすぎて忘れたが、ラティカだったから良いんだと思う。。。と、冷静になったところで彼女、ウディ・アレンの新作でペネロペ・クルスと共演らしい・・・
![]() |
06.15.02:07 Milk ~映画~ |
彼らがいったい何をしたというのだろう?
キリスト教はやっかいだ。
昔からホラー映画では、性について狂信的な家族の話が何度も取り上げられている。
同性同士の結婚について、ほとんどの反対者は熱心なキリスト教信者たちだ。
夕方観たNHKのニュースでは、アメリカの同性婚についての特集をやっていた。
反対していた人が、子どもを成すことのない自然の摂理に反した同性間の結婚など、神は許さない、と言っていた。
幸せな同性愛者は許されなくて、子どもを成す男と女なら、不幸な結婚でも許されるの?子どもができないと苦しんでいる人たちはどうなるの?
また、リベラルで公平であろう、とする人たちの中にも、どこか勘違いがある。
同性愛者に関する科学的なデータが出た場合、それを身近な同性愛者に語りたがったり、何とか自分自身の考えの中で理解しようとしたり。
無理だから、関係ないから、そんなこと。
でも、無関心じゃないだけいい。
それはやはり、先人たちの導きや活動があったからだろう。
そのひとりがハーヴィー・ミルクだ。
彼は隠すより表に出すことで、社会に知らしめようとした。
また、政治的に他のマイノリティたち(黒人や障害者や社会的弱者と呼ばれる人たち)と結びつけて戦ったことが画期的だった。
「Milk」という作品の中で、彼が破棄に力を注いだ条例6(教職にあるものの性的指向により解雇できる)、これは随分とあまりな話ではあるけれど、これは性的指向が性的嗜好と同じように語られる社会的な勘違いも大いに関係する。
同性愛は性的指向(髪の長い色白の女性が好きとか、そういうこと)であって、性的嗜好(SMや幼児性愛など)とは違うが、昔から男性同性愛者の中には幼児を対象にする人がいることも事実。
この作品は彼が凶弾に倒れるまでの活動を淡々と描いている。
アカデミー脚本賞を受賞したが、私はそこまで脚本が素晴らしいとは感じなかった。
きっとマジョリティは内容がどう、という話はできないだろう。
ハーヴィーの人となりを語るにしても、一生懸命戦った姿はわかるだろうが、それ以上のものを感じることはできないだろう。
ゲイとレズビアンが手をとって戦ったことが画期的だったことも、わからないだろう。
それはやはり同性愛の特異性に目を奪われ、そちらを印象的に感じるから。
ただ、いつもは無表情であまり笑わないショーン・ペンが、とても愛嬌ある演技を見せてくれていたこと、効果的に使っていたオペラの「トスカ」、ハーヴィーがこのオペラを観て、失った恋人に早朝、電話をするシーンからは、誰かを愛する気持ちは異性愛だろうと同性愛だろうと関係ない、と思える。
あの時の彼の孤独、喜びには胸を打たれる。
その後の展開が切ない。
「トスカ」のポスターを見るハーヴィーの目に、それ以上に映っていたもの、を思うと胸が痛い。
40歳になっても何もできなかった、そう言うハーヴィーがそれからの8年間でやったこと。
それは現代アメリカに力強く息づいていると思いたい。
ハーヴィーを追悼しようと多くのマイノリティが灯をともし、行進した、あの、光のミルキィ・ウェイは美しかった。
黒人大統領が生まれたように、決して彼がやったことは無駄ではなかった。