11.25.08:28 [PR] |
06.14.02:01 大丈夫であるように。 |
今回もいくつかのはじめましてと、さようならがあり、気持ちの切り替えが得意ではない私は、今すごくまいっている。
もしかすると、もう二度とは会えないかもしれない人たち。
彼ら彼女たちと、もう少し一緒にいたい、もっと知り合いたい、と思うほどに、会えないかもしれないなら思い出が増えるのは悲しくて、できるならちゃんと「さようなら」はせず、早くその場から逃げたいと思った。
遠いところに住む人たちとの別れはいやだ。
帰ってしまうと思うのがいやだ。
気楽に立ち回れば良いのに、そう思えない私がいやだ。
いちいち感じてしまう、小さい私がいやだ。
だけどそう思ってしまうから、しばらくはこんな気分で、思い出しては泣きそうになる心と付き合うしかない。
最後に観た作品は是枝裕和監督のドキュメンタリー『大丈夫であるように―Cocco終わらない旅―』。
ほんの数年前に初めて聴いた彼女の歌が「強く儚い者たち」。
耳触りのよい曲で、ふんふん・・・と聴いていると、ずどんと奈落に落とされる。
こんな歌詞を書く人だから、きっと生い立ちに何らかの影を持っているのだと思っていた。
作品の中に彼女の父親や母親がでてきて、それが間違いだったとわかった。
それで彼女をますます好きになった。
この人も普通なんだ。
私たちより正直なだけなんだ。
それを表現して生きていたから表現者になり、自分以外の周りの思いも正直に受け止めて抱え、折れながらフィックスしながら立ってようとしている女性なんだ。
砂浜でファンレターを燃やしていた。
そうだよ、失くしたほうがいいよ、と思った。
手紙や絵や贈られた何もかもが赤々と燃える炎の中に、彼女は自分の髪の毛を切って落とした。
長かった髪の毛は肩までになった。
彼女の『Raining』のようだと思った。
贈ってくれた人たちの一生懸命に、彼女は自分の一生懸命で最後も応えた。
是枝監督はドキュメンタリー出身の監督だからか、対象のcoccoに上手に寄り添いながら作っていた。
ライブの模様がほとんど、移動の車の中、彼女が訪れた場所、彼女の歌、この作品用にしっかりと彼女をとらえて話を聞いたシーンはたった一か所。
子どもの存在について。
彼女は宮崎駿の『もののけ姫』を例に話す。
いままではラストに少しの希望をもたせて終わるのはダメだ、わからない人たちにわからせるには全てを破壊して危機感を持たせないとダメだ、と感じていたが、子供と一緒に観たときに、「お願いだから最後に希望をもたせて」と祈った・・・と。
子供たちには希望を、明るい未来を見せてあげたい、そう願ったと。
それが10代の頃と、子供を持ってからの違いだと。
メジャーデビューして数年の彼女の歌と、子供を持ってからの歌はまるで違う。
なぜそうなのか、母になった人にはわかること。
「子どもには希望を・・・」と思った彼女の気持はとてもシンプルで、すごく素敵で、私も娘にそう感じたことに花丸のハンコをつかれたような気分だった。
気にせずに言いたい。
これが、子供を持った女の良さなんだぞ、と。
coccoは荷物を抱えて生きることにすごく正直に真っ直ぐに向かい合っている。
その健気さが痛々しいけれど、そんな生き方をしている彼女以外の人たちのためにも今回のドキュメンタリーで、あえて自分をさらしてくれたのかな、と感じた。
それが表現者としての立場で、同じ折れそうに生きている人たちへの「お互い、大丈夫であるように思ってる」んだよね、という控え目だけど心に響くメッセージなんだと。
このドキュメンタリーの写真集『大丈夫であるように。-Cocco終わらない旅‐』。
その中に書かれてある一遍の彼女の言葉
憎いと思っても 一度もあなたを愛さなかった瞬間など ない。
他のどんな言葉よりも、その思いが何よりも私の中ではまって刻まれて、なぁんだ、偉そうなこと言っても結局はそれだけじゃない、そう誰かに思われても、、、、、、
でもね、だってそうなんだから。
そしてそう気付くことが、自分を癒す薬になっていることを、きっとCoccoは知っている。
06.11.01:35 つきあってくれた |
『接吻』のラストについての解釈を色んな人たちが話している。
何人か共通しているのは
「京子(小池栄子)は長谷川(仲村トオル)を愛しはじめていた」
『接吻』ネタバレしてます。
長谷川は京子に寄り添おうとしていた。
その気持ちをありがたいと感じながらも、京子は自分とは違う人間だと長谷川を見ている。
「たったひとりだけじゃ死刑にはならないんでしょ!」
そう叫びながら彼女は長谷川に向って行き、キスをする。
そのキスを私は儀式だと思ったけれど、彼を殺さずに生かしておいたことで、あの作品には未来への希望が少しだけ残っている。
京子は長谷川に心を許していくかもしれない。
どうしても私が長谷川への京子の愛を感じなかったのは、あれだけの孤独を抱えている人が、初めて自分に寄り添おうとしてくれた人に、恋愛感情を抱くか?という疑問からだ。
私だったら、という極個人的な意見だと、NOだ。
恋愛感情ではなく、家族愛とか、強い友情のようなもの、同志的な感情なら感じる。
私の場合だと、好きで好きでたまらない人がいて、その人に自分を否定されたり拒否されたときや、声をききたくてたまらないけど連絡もままならない、我慢しなければいけない、と自分を律するとき、または他の誰かからの心無いひとこと、態度などをみて、自分自身を理解してもらえない、と感じたときに孤独を感じるので、原因がハッキリしている意味で京子のものとは違う。
京子の場合は、随分と独りよがりだ。
上手に立ち回れない、自分の気持ちを外に出せない、だから友だちもいない、というのは自分自身の問題だし卑屈だ。
彼女はネットを利用してはいなかったけれど、もし利用していたら秋葉原での凶行に至った彼と、そう大差ないのではないか。
あの彼とも違うのは、京子は自分自身を理解してほしい、と周りにサインすら出していないこと。
頑なに「私のことを理解する人はいない」と、思いこんでいる。
孤独を感じる心は理解できるし共感するけれど、京子が感じている孤独は、あまりにも漠然としていて実体がない。
実体がないから恐ろしいし、寄り添えない。
長谷川にしても、始まりは職務から。
そのあとは同情か、興味か、なんとなくだが軒下に住みついてしまった子犬か子猫に餌をやるような気持ちに少し似ているかも・・・と思う。
そんな京子の自分勝手な気持ちに付き合わされた坂口(豊川悦司)にしてみたら迷惑な話。
しかし、かなり奇妙な怪我の功名だけれど、崖から飛び降りた先に大きな鷲の巣があって、母鷲がひなと間違えて餌をせっせと与えるような、そんな不思議な居心地の良さの中で、自分の犯した罪の大きさを感じるようになるのは皮肉だ。
しばらくすると、餌を運んでいた母鷲は、それが自分のひなではないことに気付く。
多分そうなるだろうこと、彼は知っていたはず。
京子の独りよがりな気持ちを受け入れていたのは、彼には失うものが何もないから。
自分とは違う人間性を感じながら付き合っていたのは、彼もまた「もう、何もかもどうでもいい」人間だったから。
勘違いでも自分を真剣に思ってくれた相手から殺されるなら、それ以上の幸せはない。本望だろう。
もし京子に寄り添ってくれたのが長谷川ではなく、新興宗教の人なら、彼女は強力な信者になるだろう。
あのような、自分は神に選ばれた特別な存在であるかのように勘違いしている人ならばなおさら。
彼女の孤独から感じた潔さのようなものは、自分でそうあろうと決めている、信じている姿から表れている。
実はひどく単純だからこそ彼女はあのあと、長谷川に心を開いていく可能性があるように思う。
彼女の長谷川への接吻は、自分以外の外の世界への最後の抵抗でもあり、扉でもある。
06.10.00:44 昴~スバル~ ~映画~ |
1.酔っ払い客が幼い少女の踊るジゼルをみて、「店長を呼べー!」と言わないのはすごい。
2.ストリップを待っている酔っ払い客が、モダンバレエの雄、モーリス・ベジャール風のボレロをみて、腹を立てるのはまったくもって正常な反応だ。
3.白鳥の湖第4幕。気配を感じながら踊る練習のために、眼鏡を黒く塗って街をウロウロ・・・は、どれだけの効果が得られるのか疑問。また、同じく気配を感じる練習のためにストリートダンス、とはいかがなものか?
4.NYバレエ団のリズ・パーク、罠にかけてるのかかけてないのか全然わからない。むしろすばるをナンパしてるとしか見えない。でも綺麗な女の人たちが仲良くしてるのは、わくわくするから許す。
と、まぁあくまで冗談で書きだしたけれど、あり得るような馬鹿馬鹿しいような感じであり、しかしそれが馬鹿馬鹿しく見えなかった。
黒木メイサの魅力と、彼女の踊りが上手だったから。
他に脇役で出演していた桃井かおり、前田健のコンビがいい味だしてる。
スポ根もの、とも言えず、シリアスでもなく、その点は話が薄いし中途半端ではあるけれど、人生の口直しには十分なる。
なんといっても黒木メイサが素敵だ。
06.07.22:29 接吻 ~映画~ |
この作品はかなり賛否が分かれると思う。
好きか嫌いか、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」みたいに。
ラストに触れます。
他人と上手に交わることのできない京子(小池栄子)。
強盗殺人犯の坂口(豊川悦司)の顔を見た彼女は、彼に自分と同じ心を感じる。
無表情で残業をする小池栄子からは、潔いほどの孤独を感じた。
金槌を持って惨殺の舞台を探す豊川悦司には、切ないほどの孤独を感じた。
彼らがシンパシーを感じあうことは、それらのシーンを見ただけで伝わってくる。
坂口と懇意になり、明るく「一緒に戦おう」と言う京子が目指す場所は、たった二人だけの世界。
自分たちだけが存在し、わかり合えればいい、他には誰もいらない、わかってもらえなくていい。
彼らと外の世界を繋ぐのは弁護士の長谷川(仲村トオル)。
彼はいつもまともなことを言う。
そして理性と言葉と行動で、相手の心を開けると信じている、またはそうできると思っている。
違う。
分かりあえる心と心には、理屈は存在しない。
出会った瞬間に、そこに何かを感じるものだ。
言葉ではなく、ただ、感じるものだ。
だからこそ長谷川の言葉は、坂口にも京子にも空しく響く。
なぜなら、ただの言葉だから。
この作品は、そういう精神性に満ちていた。
小池栄子という女優が、そんな世界を理解して演じることができるとは思わなかった。
坂口と燃え尽きることを見つめて生きる明るさ、そして何もかも分かっていたかのような二人の最期。
どうしてそんな風にしか生きられなかったのか・・・・?
そんな思いは野暮だ。
孤独は誰もが少なからず抱えている。
他人には分かってもらえない思いを、理解してくれる誰かと出会ったら、それだけでいい。
そんな切実な思いの大きさだけが、観る人にこの作品の空気を受け入れるか受け入れないか、ふるうのだと思う。
有り得ないことではない。
誰かに何かにシンパシーを感じることは理屈ではない。
私は今だからこそ、この作品を受け入れたと思う。
しかし、このコピーはいただけない。
これは決して究極の愛ではないし、衝撃の結末ではない。
だいたい結末について観客に刷り込みするセンスのなさがいただけない。
でもそういうコピーって多い・・・
06.06.02:30 千と千尋の神隠し ~映画~ |
ハクがそう千尋に告げるシーンは何度観ても感動する。
DVDも持っているのに、テレビ放映されるとつい観てしまう『千と千尋の神隠し』。
ジブリの作品ではトトロ・ナウシカの次に好き。
観ながらいつもカオナシについて考える。
自分の居場所を求めさまよっているカオナシというキャラクター。
千尋の気を引こうとして、一生懸命に物でつろうとする。
何故なら砂金を見つけて、それに群がる人々を見たから。
ひどく浅はかで、単純。
自分で道を切り開くことを知らず、言われたまま、されるがままに生き、上手くいかないと他人のせいにする。
他人との関係性をつくることがヘタで、相手の気持ちをくむことができず、自分本位で友人関係になったり親友になったり恋人になったり別れたり、しかし本人は決して自覚しない。
余程の賢者で仁徳者が導いてくれるなら良いけれど、たいていは、そんな他人に深入りするなど賢者ほど避けるだろう。
しかし基本は素直で「良い子」。
カオナシはそういう存在だと思う。
千尋が自分で未来を切り開いていく姿と、最後まで他力本願なカオナシの姿。
作品はそこで終わり、彼らがその後どうしていくかは知らない。
しかしきっと千尋はそのままで、カオナシもあのまま銭婆の家で暮らすだろう。
千尋やハクは「本当の名前(自分自身)」を取り戻すが、カオナシはカオナシのまま穏やかに暮らす。
どちらが楽か?といえばカオナシの生き方だろう。
周りを傷つけ、与えられるまま擬似家族の中で暮らす。
千尋は銭婆やカオナシたちが紡いだ髪留めをし、前だけ向いて歩いていく。
それはヒーローの姿だ。
様々な人々の中から、彼らを救うべく立ち上がる英雄だ。
しかしその存在はたった10歳の少女であり、それまでの出来事はほんの一瞬に違いない。
彼女自身ですら、名前を取り戻した意味も、髪留めの意味も分かってないだろう。
そんな切なさも何とも言えず好きだ。
エンドロールで流れる「いつも何度でも」の精神性も大好きだ。
ひとつだけ引っかかるのは、千尋が10歳にしてはしっかりしすぎていること。
同じ女の子が頑張る作品だったらナウシカの方がいいなぁ、と思う理由